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作曲家と恋愛のお話

さて、今回は作曲家と恋愛のお話です。  「豚も恋すりゃ木に登る」ではありませんが、恋愛というものはえてして人の芸術心をくすぐるようです。  古今東西の大作曲家も様々な恋愛をしています。

まずは、恋愛が作曲に結びついた例からお話しましょう。  第一弾はプラトニックな恋のお話です。  人が人を好きになり、相手のことを強く思っているのだけれども、それを伝えることができない。  そんな思い出は誰にでもあるのではないでしょうか?  作曲家の中にはそんな想いを音楽に託して名曲を残した人が何人かいます。

まずはピアノの詩人、ショパンです。  

ショパンはその生涯で3つの恋を経験したと言われています。  もっとも有名なのが彼の最後の恋、女流作家のジョルジュ・サンドとの恋です。  この恋ではショパンは同棲までしているのですが、結局は結ばれませんでした。  もっともこの恋はどちらかというとショパンが庇護される立場の恋でした。  結婚まで考えた恋は彼の2度目の恋で、相手はマリア・ヴォジンスカ。  ショパンとは幼馴染にあたる女性です。  この恋では2人は婚約までしたとされていますが、結果的には結ばれることはありませんでした。  彼女との別れを胸に秘めて作曲したとされる「別れのワルツ」は有名です。  (俗称のいろいろ参照)  

そしてもう一つの恋は、恋というよりは憧れと言ったほうがいいかもしれません。  ショパン19歳の頃、彼はワルシャワ音楽院の同窓生、コンスタンツィヤ・グワコトコフスカにプラトニックな想いを抱きます。  彼女は声楽科の生徒でショパン自身の表現によると「まばゆいほどに美しく、素晴らしい声の持ち主」だったようです。  実際、彼女は男好きのする女性で、多くのボーイフレンドにいつも取り巻かれていたようです。  ショパンは親友のティテュス宛ての手紙の中で「実は僕は、多分不幸なことに、もう自分の理想の人に出会ってしまった。  この6ヶ月の間、自分の気持ちを話さないで、心の中で忠実に仕えてきたのだ。  彼女のことを夢見て、その想い出の中で『協奏曲』のアダージョを書いた。」と書き送ります。  ここで言う『協奏曲』というのは「ピアノ協奏曲第2番 Op. 21)」のことで、アダージョは第2楽章のことです。  ちなみにショパンはピアノ協奏曲を2曲、作曲していますが第1番として知られる協奏曲はこの第2番の後で書かれたものですが、出版された順番によってこのような番号体系になっています。

もう一人、プラトニックな恋から素晴らしい曲を残したのが、ドヴォルザークです。  

ドヴォルザークというともっとも有名なのが交響曲第9番「新世界より」であり、それ以外では「チェロ協奏曲」、「ユーモレスク」、歌曲「わが母の教え給いし歌」あたりではないかと思いますが、さほど一般的には知られていない曲の中に弦楽四重奏曲「糸杉」というとても美しい曲があります。  この曲が彼のプラトニック・ラブの産物なのです。  

ドヴォルザーク24歳の頃、彼はピアノの弟子ヨゼファ・チェルマークに片思いをしてしまいます。  素直に告白できないドヴォルザークはその想いをこめて18曲からなる歌曲集「糸杉」を書きます。  その後、その中から12曲を選び、弦楽四重奏用の編曲したのが、ここでお話しする「糸杉」です。  12曲のタイトルを見ると、彼にとってどれだけこの恋が大事だったのかがよくわかるような気がします。  ちなみに12曲のタイトルを拾っておくと。。。

「あなたに寄せる私の愛は」 「死は多くの人々の胸に」 「優しい瞳が注がれるとき」 「その愛は、私達を幸せに導かないだろう」 「本に挿んだ古い手紙」 「おお、私の輝くバラよ」 「私はあの家の周りを忍び歩く」 (今の時代だとストーカー行為ですよね?) 「私は深い森の空地に立ち」 「おお、ただ一人のいとしい人」 「そこに岩があった」 「自然はまどろみと夢の中に」 「お前は、なぜ私の歌が激しいのか尋ねる」        の12曲です。  とても甘美なメロディーの曲です。  是非一度聴いてみてください。

次は、なんともロマンチックに明日はいよいよ結婚式という状況で書いたとされている曲についてです。  そんな素敵な状況の中で作曲をしたのは、シューマンです。  

今、私は素敵な状況でと書きましたが、シューマンとその妻クララの恋愛は素敵というよりはとても大変なものでした。  クララの父親、フリードリヒ・ヴィークは当時高名なピアノ教師、娘のクララは天才少女の名をほしいままにしているピアニスト、そんな親子の所へ弟子入りしたのが、文学青年シューマンでした。  シューマンの若い頃はいつもどこか夢見がちで、奔放で頼りない感じがしたのでしょう、父親のヴィークは2人の交際に猛反対をしていたのです。  

父親の猛反対に対し結婚の訴訟まで起こして婚約に至った2人でした。  明日が結婚式という前の日の晩、シューマンはその表紙に「わが愛する花嫁に」と書いた楽譜をクララに手渡します。  これが彼の有名な歌曲集「ミルテの花」です。

次のお話はさしたる障害もなかったようなのに、結局結ばれなかった恋のお話です。  ブラームスは自分の曲を出版するのにとても慎重な作曲家でした。  

これを彼が生まれた北ドイツ人特有の内気で自己批判の厳しい民族性と捕らえる向きもありますし、彼の優柔不断さの表れと見る向きもあります。  しかし、彼の慎重さ・優柔不断さは作曲だけでなく恋愛にも表れていたようです。  お互い好きでいながら結局結婚にまで至らなかったある女性との想い出のために、彼もまた素敵な曲を残してくれました。  ハンブルクの決して裕福とはいえない家に生まれたブラームスは19歳の時、ハンガリー出身の E. レメーニというヴァイオリニストと知り合います。  彼との出会いによりブラームスは小さなハンブルクから広い世界へ飛び出していきます。

そして24歳の時、デトモルトの宮廷で3ヶ月間の職を得ます。  そこで知り合った美しい声楽家、アガーテ・フォン・ジーボルトと恋に落ちます。  ひそかに指輪まで交わしたと言われるこの交際は、ブラームスの1通の手紙によって終止符を打ちます。  32歳になってブラームスは彼女との想い出を込めて一つの曲を作曲します。  それが「弦楽六重奏曲第2番」で一般的には「アガーテ六重奏曲」と呼ばれています。  この名前の由来は第一楽章の結尾部分(ヴァイオリン声部)で A-G-A-(T)-H-E (ラ・ソ・ラ・シ・ミ)と三度歌い上げるところからきています。  

「僕は貴女を愛しています。  もう一度お目にかからなければなりません。  貴女を僕の腕に抱き、口づけし、貴女を愛していますと言うために、戻っていくべきかどうか、すぐお返事を下さい。」(ブラームスからアガーテ宛ての手紙)  この曲を作曲する前年、彼はアガーテの住んでいた家の前まで行き、そこでこの曲を作ることに決めたと言われています。

曲の中に愛した人にまつわる音名(上記 A-G-A-H-E のように)を盛り込んだ例をもう一つ。  再登場のシューマンです。  

彼もまたかつて愛した女性にまつわる地名を音名に置き換えて曲を作りました。  それがピアノ曲「謝肉祭」です。  この曲には副題として「4つの音符でつくられた小景」とつけられているのですが、その音は A-Es-C-H (ラ・ミの♭・ド・シ)で ASCH (アッシュ)という地名を置き換えたものです。  シューマンはこの音型がお気に入りだったようです。  というのはシューマンの綴り、Schumann の中にもこの4文字が含まれており文学青年シューマンとしては自分とその女性との宿命を感じたからということだったようです。  

当時20歳だったシューマンにとって後の妻クララはまだ幼く、恋愛の対象にはなりえませんでした。  ところがヴィークのもとに寄宿していた別の女性、エルネスティーネ・フォン・フリッケンという17歳の少女は年頃から言ってもシューマンにとっては絶好の恋愛対象でした。  彼女の出身地がアッシュというボヘミアとザクセンの国境近くの町でした。  シューマンのこの恋は相思相愛だったと伝えられていますが、彼女の父親により2人の仲は引き裂かれます。  その彼女との恋の想い出に書かれたのがこの「謝肉祭」というわけです。  

この曲は全部で20曲の小曲からなる組曲なのですが、その8曲目と9曲目の間に「スフィンクス」と題される3つのパートからなる不思議な楽譜が挟まれています。  それはこの ASCH をいろいろ並び替えた音の羅列で、通常は演奏されません。  又、10曲目は「A.S.C.H.-S.C.H.A. 躍る文字」と題され、ASCH とシューマンの名前に出てくるこの文字の順番 S.C.H.A. を意識して作った曲であるとされています。  シューマンはこれ以外にもこのような音名置き換えをやっている例がいくつかあり(アベッグ変奏曲や子供のためのアルバム)、文学青年らしい趣味だったと言えるかもしれません。

次のお話はもうちょっとこわいお話です。  フランスの作曲家、ベルリオーズの1番有名な曲と言えば「幻想交響曲」だと思うのですが、実はこの曲も彼の失恋から生まれた曲として有名です。  

何といってもこの曲、たいていの CD のライナーノーツ(解説)を見ると、「一人の病的な感性と想像力を持った若い芸術家が、苦しい恋に絶望してアヘン服毒自殺を図る。  しかしアヘンの量が足りなかったために死にきれず、重苦しい眠りの中で一連の奇怪な幻想を見る。  その中で恋する人は一つのメロディとなって何度も現れ、彼はついに夢の中で恋人を殺し、悪魔の饗宴に身を置く」といった内容の注釈がついているはずです。  ここで言う「若い芸術家」はベルリオーズ自身、そして恋人は当時の有名なシェイクスピア女優のハリエット・スミソンです。  

パリ音楽院の学生だったベルリオーズはイギリスから巡業に来たシェイクスピア劇団の公演を見、その主役を演じたハリエットに一目ぼれをしてしまいます。  そして一人勝手に「自分は彼女と結婚するぞ」と決意し、ラブ・レター攻撃を開始します。  とは言え、片やしがない音楽学生、片や今をときめく売れっ子女優ということでこの恋はその当時は成就しません。  後年、この恋はやっと実り2人は結婚しますが、どうやらさほど幸福な結婚ではなかったようです。  

ちなみにこのベルリオーズ、もともと幼い頃からかなり夢想的、情熱的な傾向があったようですが、長じてからはアヘン中毒の傾向もあったようです。  1830年、ベルリオーズ26歳の年、彼はある女流ピアニストと婚約します。  ところがその1ヵ月後、その女性の母親から「娘と貴方の結婚は認めていません。  娘は別の人と結婚させます。」という手紙を受け取ります。  この手紙にかっとなったベルリオーズはピストル2丁、変装用の衣装、アヘン、ストリキニーネを買い集め、「2人を殺して俺も死んでやる!」と馬車に飛び乗ります。  結局この馬車が道中故障し、彼の殺人計画が実行に移されることはありませんでした。

次のお話は「女性の敵」ということで、今ならワイドショーや週刊誌の記者達にパパラッチされてしまうかもしれないという作曲家のお話です。  私達はとかく素晴らしい曲を作った大作曲家たちは高人格者と思ってしまいがちですが、彼らとて人間。  作曲の才能は素晴らしいけれども人間として、男としてみたときに??という人がいるのも事実です。

まずはフランスの大作曲家、ドビュッシーです。  

彼は生涯に二度結婚していますが、実はそれ以前にある女性と10年ぐらい同棲生活を送っていました。  その女性、名はガブリエル・デュポン、職業はしがないお針子でした。  当時まださほど売れていなかったドビュッシーは言ってみれば彼女のヒモのような生活をしていました。  ところがドビュッシー、ある日別の女性に出会うと糟糠の妻(内助)ガブリエルをあっさりと捨てて、新しい彼女ロザリー・テクシュと結婚してしまいます。  ガブリエルは絶望しピストル自殺を図ります。  

ところが数年後、富裕な銀行家夫人と出会ったドビュッシーはその女性と駆け落ちをして今度はロザリーを捨ててしまうのです。  ロザリーもガブリエル同様、ピストル自殺を図ります。  ガブリエルとの時はさほどダメージを受けなかったドビュッシーでしたが、ロザリーとの時には世間も黙っておらず、「財産目当てに、妻を捨てて自分を売った奴」と非難轟々、その直後に発表した交響詩「海」も正当に評価されず、最悪の批判を受けることになったのでした。

もう一人、女性の敵を挙げましょう。  それはワーグナーです。  彼は一言で言うと「押しの強い人」であったことは確かなようで(彼の曲を聴くとさもありなんと言った風情ですが・・・)「自分の曲が売れないのは、世間のレベルが低いからだ」といったようなことを平気で豪語するような人でした。  そんな性格ですから、借金の踏み倒しなどは得意技、妻を泣かせて自分の援助者の夫人に手を出してもあっけらかんといった風だったようです。

ワーグナー21歳の時、彼はある巡業歌劇団の女優と結婚しますが、その後何度もこの女性を泣かせたようです。  特に有名なのはスイスで出会ったワイン商の妻との不倫です。  この不倫によって夫婦仲にヒビの入ったワーグナーは別居しますが、今度は50歳の時、自分の弟子であり指揮者兼ピアニストのハンス・フォン・ビューローの妻、コジマと愛し合うようになります。  コジマはリストの娘でワーグナーとの年の差は24歳!  よくもまあ落とせたものだと感心してしまいます。

ワーグナーとビューロー、そしてコジマの3人の関係は、もともとワーグナーがコジマの父、リストと親しく、リストの指揮したワーグナーのオペラ「ローエングリン」を観たビューローが感激してワーグナーの弟子となり、同時にリストのピアノ門下生にもなりました。  こうしてビューローはコジマと出会い恋に陥り結婚します。  コジマはリストがシャルル・ダグー伯爵夫人だったマリーと駆け落ちしてできた娘で、作曲・演奏に颯爽と活躍する父親と小説も書くという才女の母親の姿を見て多感に育ちます。  彼女は頭がよく情熱的、人生に対して明確な目標や期待を持っている少女だったと言われています。  

そんな彼女の目に映った若きビューローの姿は、自慢の父親とその父親と競うように活躍していて仲のよいワーグナー、その両方の弟子というわけでとても眩しく、次の世代の音楽界を担うのはこの人に違いないと思わせるのに充分でした。  ところがビューロー、演奏家としては優れていましたが、作曲家としての才能はあまりなかったようです。  ビューローに幻滅し始めたコジマに当初は相談相手として接していたワーグナーでしたが、しっかりとコジマの心をつかんでしまいます。  折りしもワーグナーは結婚26年になる夫人のミンナと別居中。  こうして2人の不倫の恋は一挙に燃え上がっていくのです。  

2人の仲を察知したビューローはそれでも暫くは我慢していたようですが、遂に彼女との離婚に合意します。  その3年前にワーグナーの妻も亡くなっており、2人は結婚するのです。  その後、ワーグナーはコジマの誕生日の朝に「ジークフリート牧歌」を捧げるほど二人は幸せになりましたし、ビューローはピアニストとしてチャイコフスキーの「協奏曲第1番」をアメリカで初演したり、マイニンゲン宮廷の管弦楽団を一流のオーケストラに育て上げたりと、演奏家として活躍していきます。  この時代、音楽界はワーグナー派とブラームス派の二大潮流が支配していましたが、コジマとの離婚後のビューローはブラームス派の一員として数えられています。  又、彼は暗譜による颯爽とした指揮スタイルを完成して、職業指揮者として第1号的な存在となり音楽史にその名を残しました。  コジマとの離婚の14年後、ビューローもマイニンゲンの女優と結婚します。

 

2010年4月

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