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音楽史 中世の音楽Ⅰ

中世の音楽は大きく分けて2つの時代からなります。  1つ目(中世の音楽Ⅰ)はグレゴリオ聖歌を中心とする教会音楽全盛の時代です。  この時代の音楽の特徴は一言で言えば1つの旋律をみんなで歌う「単旋律の音楽」と言えると思います。

2つ目(中世の音楽Ⅱ)はそれまでの単旋律の音楽に代わって、いくつもの旋律が絡み合う「複旋律の音楽」が発達しました。  これはじっくりと考えてみるとかなり画期的なできごとなので、この2つを別のピリオドとして扱います。

初期のキリスト教音楽

キリスト教は、古代ローマ帝国の統治下で誕生しました。  古代ローマ史について語るのはこのページの趣旨ではありませんけれど、ざっと俯瞰してみると

BC 753 頃 伝説によると建国
BC 510 頃 共和制の時代へ
BC 270 頃 イタリア半島統一
BC 1C 頃  第一次三頭政治(ポンペイウス、シーザー、クラッスス)、
       第二次三頭政治(アントニウス、オクタヴィアヌス、レピズス)を経て
BC 27   オクタヴィアヌスが皇帝「アウグストゥス」の称号を用い、以後帝政時代へ
 

という感じでしょうか?  この帝政時代に入って間もなくイエス・キリストが誕生し、やがてキリスト教が誕生しました。

古代ローマでは少なくとも音楽の分野に関してはほとんど独自に発達したものは見られなかったようです。  すべてが「古代ギリシャ音楽」の模倣だったのです。  もっともこれは音楽だけに限らず芸術・文化全般に言えることかもしれません。  同時に古代ローマで流行ったのはおもに遊興と強く結びついた音楽であったとも言われています。

さて、この古代ローマの時代においてキリスト教は苦難の道を歩んでいました。  このあたりは皇帝ネロのお話などで皆さんにとっても馴染み深いものがあるのではないでしょうか?  

初期のキリスト教と音楽は、密接に結びついていました。  と言うのもキリスト教の前身である古代ユダヤ教においては偶像崇拝を禁止しており、彼らの祈りの儀式では音楽こそが重用されていたからです。  初期キリスト教もこの伝統を引き継ぎ、偶像崇拝を禁止していたので、音楽はとても大事なものでした。  とは言え楽器の使用は禁じられていましたから(楽器も偶像とまでは言わないけれど目に見える形あるものという点で偶像と同じと考えられていた)、人間の声による歌だけが重んじられていたのです。

アカペラという言葉があります。  現在ではこの言葉は「楽器による伴奏なしの合唱」を指しますが、元来この言葉の意味は「寺院風に」とでも言いましょうか、そんな意味の言葉でした。  その意味するところは上記のようなキリスト教における慣習(?)から来ているのです。  

余談ではありますが13世紀のイタリアの神学者、トマス・アクィナス(昔、世界史で「神学大全」なんていう著作の名前と一緒に暗記しましたよね。)も、声楽だけによる教会音楽の純粋性について指摘しているぐらいですから、結構根強い思想なんですよね。

さて、当初は迫害されっぱなしだったキリスト教ですが、長い年月をかけて少しずつローマ帝国内にも浸透していきました。  キリスト教徒の数が増え続けるにしたがってローマ皇帝もいつまでも「迫害する側」に立っているわけにはいかなくなっていきます。  こうして西暦313年、コンスタンティヌス大帝が「ミラノの勅令」を発布し、キリスト教を公認しました。

お上のお墨付きをもらったキリスト教はますます広まっていきます。  キリスト教が広まればその儀式で重用されていた音楽も発達していきます。  西暦380年頃、法王ダーマスという方が礼拝の洋式や音楽を整備したと言われています。  そして西暦394年、テオドシウス帝によりついにキリスト教がローマの国教に制定されます。

ところが395年にテオドシウス帝が亡くなると、古代ローマ帝国は2つに分裂してしまいます。  すなわち、西のローマを中心とする西ローマ帝国と、東のコンスタンティノープルを中心とする東ローマ帝国の誕生です。  そして、この時からキリスト教は西ローマ帝国を中心に発展していく「カトリック教会」と、東ローマ帝国を中心に発展していく「ギリシャ正教会」の2つの宗派に分かれていくのです。

その後、ゲルマン民族の大移動を経て西暦476年に西ローマ帝国が滅亡、481年にはフランク王国の建立。  その他大小の王国が乱立する時代に入っていきます。  そうした中で自分の王国の国力を増強するために、キリスト教と手を組もうと考える国王が出てきました。  もっとも顕著な例がカール大帝でしょう。  

西暦800年、教皇レオ3世によりクリスマス=ミサの折にローマ、サン=ピエトロ寺院でローマ教皇からのお墨付きをいただく形でカール大帝は「西ローマ皇帝」の帝冠を授けられます。  こうしてカトリック教会はますます発展していくことになります。

まあ、このあたりの歴史についてはここではあまり掘り下げないことにしましょう。  音楽の話に戻して、まずは「カトリック教会」における音楽について見ていくことにします。

キリスト教の経典と言えば誰もが知っている「聖書」です。  現代の私達は各国の言葉に翻訳された聖書を持ち、過去の芸術家が聖書の物語を題材にした絵画を残し、何人もの劇作家が聖書に題材を求めたお芝居等の舞台芸術を残してくれているので、必ずしもキリスト教徒でなくても有名なお話については見たり、聞いたりしています。  

ところが初期のキリスト教時代には聖書はギリシャ語で書かれたものしかありませんでした。  ギリシャ語なんていうのは当時のローマではほんの一部の知識階級の人だけが理解する言葉でした。  当時のローマ人たちはラテン語を使っていたので、一般の人が聖書を読むことができるようにということでラテン語の聖書が作られるようになりました。  現在もカトリック教会の公用語はラテン語ですけれど、それはこの時代から綿々と引き継がれてきた文化なのです。

さて、政治の世界でゴタゴタ起こっている間に、宗教の世界でもちょっとした混乱が起こっていました。  キリスト教は公認されて以来急速に広まっていったのですが、それに伴って各地、各民族でいろいろな礼拝のやり方や礼拝に付随する音楽ができてしまい、何が何だかよくわからない状態になってしまったのです。  

カトリック教会の中心をなすローマ法王庁は「これではいかん!!」とばかりにようやく重い腰をあげました。  これまでさまざまに発展してきた教会音楽を集大成して組織化しようということになったのです。  これを実行したのが6世紀末に即位したグレゴリウスⅠ世で、彼の名前をとって「グレゴリオ聖歌」と呼ばれるものが制定されました。

「グレゴリオ聖歌」は真新しく作られたものではありませんでした。  それまで歌われていたカトリック教会の礼拝用音楽を集大成し、組織化したものなのです。  同時にグレゴリウスⅠ世はこの聖歌を定着させるために歌唱学校を作ったりもしたようです。

キリスト教会の司祭たちが行うもっとも古い伝統的な祈りの儀式は、「聖務日課」と呼ばれるものです。  これは一日のそれぞれ決められた時間に行う祈りでした。  もっとも有名なのは日没時に執り行われる晩課(「夕べの祈り」)でしょう。

ヨーロッパを旅行してみると必ず教会を中心に集落が形成されていて、ある集落から別の集落に近づくとまず目に飛び込んでくるのは教会の尖塔です。  そして、この尖塔には鐘が設えてあって、教会で祈りが行われるときには必ず鳴らされます。  決まった時間に鳴らされるこの鐘が一般庶民にとっては時計代わりとなり、信仰と生活の結びつきがますます強くなるという連鎖が働きます。

余談ではありますが、ミレーの有名な絵画「晩鐘」はこうした風景を実に美しく描いていると思います。  教会から鳴り響く「夕べの祈り」を告げる鐘の音に、農夫達が畑仕事の手を休めその場で祈りを捧げる風景。  まるで映画のヒトコマを切り取ったようなあの絵に音楽を感じるのは私だけでしょうか?

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ミレー作 「晩鐘」

「聖務日課」に話を戻して、ここで使われていた音楽は「詩篇誦」(旧約聖書の詩篇を歌ったもの; こちらはどちらかと言うと歌うというよりは朗誦に近いもの)とカンティカ(旧約・新約聖書をテキストにした一種の賛美歌; こちらは歌唱的な性格が強く、聖書の中の抒情的な部分を歌ったものが多かったらしい)だったと言われています。

さて、キリスト教会の礼拝の洋式は時代と共にいろいろ変化していったようですが、だんだん「ミサ」という儀式が中心にすえられるようになっていきました。  現在カトリック教会で一般的に行われている形に決まったのが西暦11世紀ごろと言いますから、多くの変遷を辿っていったのでしょう。  一口にミサと言っても、それぞれの祝日によってその祈りの内容は異なるし、言葉も変わります。

一般的に「ミサ固有文」と呼ばれる部分は言ってみれば可変部で、ミサの内容によって言葉が変わる部分、「ミサ通常文」と呼ばれる部分はどんなミサであっても必ず決まった言葉が使われる部分です。  尚、「レクイエム」というのは死んだ人を追悼する「死者のためのミサ」を特別にこう呼びます。

またまた余談ですけれどミサ儀式の中で通常音楽を伴う部分を式次第の順番に以下にまとめてみました。  これはずっと昔、私が書物で調べたものをメモしたノートを転記しているのですが、私自身、キリスト教徒ではないので実際のミサに参加して確認したものではありません。

ミサ (Missa) レクイエム (Requiem)
入祭唱; Introitus 入祭唱; Requiem aeternam
キリエ; Kyrie キリエ; Kyrie
グローリア; Gloria
昇階唱; Graduale 昇階唱; Graduale
アレルヤ唱; Alleluia 詠唱; Tractus
クレド; Credo 続唱 怒りの日; Dies Irae
奉献唱; Offertorium 奉献唱; Offertorium
サンクトゥス; Sanctus サンクトゥス; Sanctus
アニュス・ディ; Agnus Dei アニュス・ディ; Agnus Dei
聖体拝領唱; Communion 聖体拝領唱; Communion
終祭唱; Ite, Missa est 終祭唱; Requiescant in pace

 

上記のうち、○印のついている部分が「ミサ通常文」でその他の部分が「ミサ固有文」だそうです。  古今の作曲家のミサ曲を聴くと、そのほとんどのケースでこの○印をのついている部分しか作曲されていないのですが、それは通常文だけであればいろいろな機会に演奏してもらえるけれど、固有文まで曲をつけてしまうと演奏される機会が減ってしまうという理由があるようです。  そして、この固有文にあたる部分で演奏される頻度のもっとも多いのが「グレゴリオ聖歌」なのだそうです。  (もしくは音楽を入れずに祈祷文を唱えるということもあるらしいです。)

グレゴリオ聖歌の前身は、それまで各地のキリスト教会で歌われていた聖歌だったとお話しましたけれど、もっとも大きな影響を与えているのは「聖アンブロジウス」という方が制定した聖歌だったと言われています。  この方は4世紀にミラノで活躍した司祭として知られ、ギリシャ旋法を基にした4つの旋法を制定したと言われています。  その詳細はここでは割愛しますが、何かの本で目にされることもあると思うので4つの旋法の名前だけご紹介しておきます。  「フリギア旋法」 「ドリア旋法」 「ヒポリディア旋法」 「ヒポフリギア旋法」 の4つです。  楽典の勉強などをするとたまに出てくる言葉です。  

旋法というのは要するに歌い方のことで、音階とちょっと似ているのですけれど、音階は音の高さが厳密には決められていないのに対し(たとえばドは高いド、低いドなどいろいろある)、旋法は音の高さがきっちりと決まっています。 (たとえばもしも低いファと高いファが含まれていた場合、別の音として認識されます。)

グレゴリオ聖歌のまとめとして、この当時使われていた記譜法のお話をして「中世の音楽Ⅰ」を終わらせようと思います。  

クレゴリオ聖歌の楽譜は、「ネウマ譜」と呼ばれる一種の記号で書かれていました。  「Neuma」 とはギリシャ語で「息」の意味を持つ「Pneuma」から来ていると言われます。  もっとも最初のものはとってもシンプルで、典礼文の語の母音が「上がる」「下がる」「上がってから下がる」という3つのパターンに分けられ、その記号が付されただけのものでした。  これが次第に複雑に発展していきました。

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ネウマ譜のサンプル

まず最初に問題になったのが、当初の記譜の仕方では音の高さがわからないことで、10世紀ごろからまず1本の赤い横線を引き、これを f (ヘ音; ファ)としました。  次に c (ハ音; ド)を表す黄色い線をその上につけました。  こうして13世紀ごろにはこれが4線譜にまで発展したそうです。  私達が現在使用している5線譜まで、もうちょっとですね。(笑)

次に問題になったのが、1つの音をどのくらい伸ばせばいいのかがわからないことで、これも11世紀頃から音の長さを表す方法が考案され始めました。  この延長線上に現在の「おたまじゃくし型」の音符が形作られていったのです。 

2010年4月

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