ルートヴィヒ~神々の黄昏

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ルートヴィヒ 神々の黄昏 完全復元版

1972年 伊・西独・仏合作 監督:ルキノ・ヴィスコンティ

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この映画は巨匠ルキノ・ヴィスコンティの代表作として名高いが、と同時に歴史と文学で土台を固めて人間を描くことを特徴とするヨーロッパ映画界の不滅の財産である。  狂王ルートヴィヒの常軌を逸した生活と屈折した愛を描き、全篇に歴史の重さと貴族的な香気が横溢し、アメリカ人には製作不可能なもう1つの世界がある。  キャスト、スタッフに粒よりの人材を起用し、歌舞伎に通ずる様式美とヨーロッパの歴史を踏まえた荘厳かつ絢爛豪華な内容は、一大絵巻の趣である。  ヘルムート・バーガーの古典的な容貌と耽美的な雰囲気、ロミー・シュナイダーの美しさと品格は絶品だ。  贅を尽くしたセットと秀逸なカメラ・ワークに目を奪われる。  

ときは1864年、若きルートヴィヒ(バーガー)はバイエルン国王として即位した。  若き王は心酔する作曲家ワーグナー(トレヴァー・ハワード)を援助し、彼に倒錯した愛を感じていた。  だがワーグナーは大作曲家リストの娘で友人の妻、コジマ(シルヴァーナ・マンガーノ)と不倫の関係にあった。  ルートヴィヒはゾフィ(ソニア・ペトローヴァ)と婚約するが、彼女の姉のエリーザベト(シュナイダー)に惹かれていた。  結婚に踏み切れない彼は、従僕や男優に愛を求めた。  やがて現実から逃避するルートヴィヒの狂気はエスカレートし、世間の批判の矢面に立たされる。  女は勿論、男の愛も成就せぬ彼の容貌は衰え、遂に退位を迫られる。  1886年精神錯乱で死亡、享年40歳。  稀に見るゴージャスな映画である。  (DVD パッケージの解説より転載)

 

この映画は KiKi のお気に入りの1作です。  KiKi は個人的にはこの悲劇の王様に学生時代から強烈に惹かれていた部分があって、この映画を最初に観たのも大学生の時だったのですが、ヴィスコンティの耽美的な世界に、ヘルムート・バーガーの中性的な美しさに、そしてロミー・シュナイダーの美貌と気品に一発でノックアウトされてしまいました。  でもね、全篇でおよそ 4時間 という超大作映画なのですよ。  だからこれを観るときにはそれなりに覚悟(?)が必要で、KiKi も大好きな映画とは言うものの、これまでの人生の中でまだたった5回しか通して観たことがありません ^^;  でもね、今年はモーツァルト・イヤーでもあるけれど、ヴィスコンティの生誕100周年でもあるのだそうです。  で、渋谷のテアトルタイムズスクエアではこの10 月にこ~んな催しがあるのだとか・・・・。  それに触発されて(?)今日は久々にこの映画を頑張って鑑賞してみることにしました。

まずこの映画のトリビア的なお話をしておくと、この作品はヴィスコンティ監督のドイツ三部作(又の名を退廃三部作)の1本と数えられています。  因みに残りの2作は「地獄に堕ちた勇者ども」「ベニスに死す」です。  監督のルキノ・ヴィスコンティは1906年にイタリアのミラノで10世紀に起源を発する貴族の家に生まれたお坊ちゃまです。  この家系、13世紀からはミラノを領有してきたという正真正銘の大貴族。  ルキノのおじいちゃんはミラノ・スカラ座のパトロンでした。  だからルキノ君は幼少時代から芸術・文芸援護の精神的土壌の中で育った人なんですよね~。  そんな子供時代を過ごしたルキノ君だけに「ベニスに死す」では原作者のトーマス・マンが主人公を小説家として描いたにも関わらずマーラーを意識した作曲家に変えちゃったりしているし(マーラーの「アダージェット」を有名にした映画ですよね)、この作品ではワーグナー芸術擁護に全人生のみならず王国までかけちゃったこの悲劇の王様をとりあげたりしているっていうのは何となく理解できるような気がします。

 

  

ところでルートヴィヒが数奇な運命を辿った人物であることに負けず劣らず(?)、この映画も製作に当たってはたくさんの困難と直面しなくてはなりませんでした。  ヨーロッパの貴族社会を描かせたらこの人の右に出るものはいないヴィスコンティ監督ですが、それだけに彼の完璧主義、というか本物志向には凄まじいものがあり、この映画はず~っと資金難という問題を抱えながら制作されました。  結局イタリア、フランス、西ドイツ(当時)の共同制作ということで撮影が始まりますが、当事者の数が増えると言うことはその当事者たちの思惑がぶつかりあうということでもあり、幾度となく撮影中止の危機に見舞われます。  そして映画完成直前にヴィスコンティは血栓症で倒れます。  公開が危ぶまれる中、製作者たちは出資分の元をとるためにこの映画を3時間のダイジェスト版にして公開に踏み切ることを決定します。  これはどうやら英語版のようです。(生憎 KiKi はこの3時間版を観たことがありません。)  更にはヨーロッパでの劇場公開にあたっては2時間10分版や2時間23分版などが作られたようです。  ところがそのプロダクションが倒産。  そしてヴィスコンティ監督の死亡。  こうしてこの映画のネガは司法競売にかけられることになります。

そんな「悲劇の映画」に手を差し伸べたのがスーゾ・チェッキ・ダミーゴをはじめとする「ルートヴィヒ」撮影に関わったスタッフたちでした。  マストロヤンニがこれに協力します。  彼らはヴィスコンティが望んだ状態にできるだけ近づけ保存するために奔走し、今回 KiKi が鑑賞したこの4時間の復元完全版が生まれました。  この復元に当たっては元の英語版にイタリア語のアフレコをするという奇怪な編集作業が伴われていました。  ドイツものであるにも関わらずイタリア語という摩訶不思議な映画でもあります。

映画はまずルートヴィヒが即位するところから始まります。  18歳の若きルートヴィヒは父王の急死により否応なく王位を継がなければいけない立場に追い込まれます。  戴冠式が始まる前、彼は言いようのない不安を克服するために大司教に教えを請います。

「謙虚でありなさい。  最も重要なことです。  身近な人の忠告に素直に耳を傾け従いなさい。  真に偉大な者は控えめで慎ましく、栄誉に惑わされない。

これを聞いたルートヴィヒは晴々とした表情で答えます。

「分かりました。  私を苦しめてきた不安も今や去りました。  授けられた力の使い方が分かったからです。  目の前の闇が開けました。  私は真の賢者や偉大な芸術家を集め、王国の名を高めるでしょう。  かつての偉大な君主たちがそうしたように。  必ずや私も・・・・。」

これって彼がいわゆる帝王学をしっかりと身につけた専制君主然とした政治家の王様ではなかったからこそのセリフに思えます。  彼は即位前、力の使い方がわからなかったんだと思うんですよね。  王様というのが何をしなくちゃいけないのか、どんな人間であればいいのか、皆目見当がつかなかったのだと思います。  しかも運命の皮肉でそんな彼が生きていた時代はもはや古きよき時代ではありませんでした。

ルートヴィヒ2世の人生は1845年に始まり、1886年に終わっています。  因みに世界史年表なんぞというものを見てみるとこんな時代でした。

1848年 フランス2月革命
1853年 クリミア戦争
1866年 普墺戦争
1970年 普仏戦争
1871年 ドイツ帝国成立
1878年 ベルリン会議
1882年 独墺伊三国同盟

この中でルートヴィヒ2世の人生に最も影響を及ぼしたのが普墺戦争と普仏戦争でした。  彼は大国の思惑が牽引する世界の中でバイエルンという小国(一地方都市と呼んだ方がいいかもしれません)の君主として様々な外交的な駆け引きの真っ只中にいなくてはなりませんでした。  で、これが野心家で、リアリストで、力に興味のある人物だったらよかったのかもしれないけれど、残念なことにこの王様はそういうタイプではなくロマンチストで芸術家で夢想家だった・・・・・というのが従来のルートヴィヒ評なのですが、KiKi は何となく、ちょっと違うような気がします。  確かに彼は根っこの部分で力と力の争いなんていう次元の低いもの(と彼は思っていたはずです)には興味がなかったんだろうと思います。  そして芸術や伝説・神話世界によりシンパシーを感じていた人間だったのではないかとも思います。  でもそれと同時にものすご~くリアリストな一面も持っていた人物なんじゃないかとも思うんですよね。

彼の王国をとりまく環境を見てみると、あっちの王様もこっちの王様もみ~んな家系図を辿っていけば「一族」とも言えるような環境でした。  KiKi はね、彼は統一ドイツには興味がなかった人なんだろうと思うんですよね。  どうせ同じ一族の中の自分ではない誰かの覇権に過ぎないのに、なぜその一族の中で争ってまでして強大国家を作らなくちゃいけないのかがわからなかったのではないかと思うんですよ。  いや、わからなかったと言うよりそれが世界情勢の趨勢であることを理解しつつも納得できなかった人なんじゃないかと思うんですよ。  戦争がないときには身を飾り立ててお互いにおべんちゃらを言いあいながら社交に励むくせに、その一方では相争うという矛盾の狭間でいかに生き残るかを必死で模索していた人物なんじゃないかと思うんです。

映画の中で彼はこう言っています。  普墺戦争の最中、前線から弟のオットーが一時的な帰還を果たし、ルートヴィヒに挨拶をしに来たときのこと。  バイエルンの同盟国オーストリア陣営の不利を伝えるオットーが「でもこれも親戚づきあいだからこの戦争への参加は致し方なし・・・・。」というようなニュアンスのことを口にしたのに対する返事です。

「敵のプロイセンも親戚だ。  一族の間で戦争もすれば結婚もする。  子を産み、兄弟を殺し、近親相姦まで・・・・・。  理由もわからずに。  (普墺戦争を)やめさせようとできる限りのことはした。  だから私にとって戦争は存在しない。  王は戦争の存在を知らんと伝えよ。

これは戦時中の「ルートヴィヒ引き篭もり」の際のセリフなんだけど、多分ルートヴィヒは自分が積極的に戦争に関与していないことをアピールするという戦略をとっていた人物なんじゃないかと思うんです。  なぜならそれがバイエルンが生き残ることができる唯一の道だと考えたからです。  もちろん戦争が嫌いで美しい伝説の夢物語の世界に浸っていたいという本能的な欲望もあったと思います。  でも彼はそんな自分の性向をも国の難局で彼の理想を実現するために利用した人物だったのではないかと思うんですよ。  そう、さながらシシィがこの映画の中で言っているように、「どうせ変人扱いされていたんだから、これでいいんだ。  牢獄のような宮殿も戦争も、嫌いなものは嫌いなんだ。  イヤなことをイヤといって何が悪い?!」と。  でも、シシィと違って彼は一国の王ですから「イヤなことをイヤと言ってはまずい」ことは理解していたと思うんですよね。  だから彼は変人を装って引き篭もるという手段に出たのではないかと・・・・・。

KiKi はルートヴィヒがハプスブルク皇妃であるエリーザベト(シシィ)に魅せられたのは、彼女がハプスブルクの宮廷文化に背を向けた女性だったからじゃないかと思うんですよね。  彼ら2人はヨーロッパの王族一族の暮らしの虚しさ、欺瞞に人間的感情としてどうしても割り切れなかった人物同士だったのではないかと思うんです。  だから彼らは共に「孤独を愛する」と評されるような行動をしていたけれど、ルートヴィヒがあれほどまでにワーグナーを求めるのは、彼は自分の心の奥を理解する人を求めていたからこそだと思うんです。  本当に「孤独を愛する」人物だったとしたらあんな風に誰かに恋焦がれるのは逆におかしいと思うのですよ。  でも、彼は彼の周囲には彼の心根を理解してくれる人を見つけることができなかった。  そりゃあそうです。  彼の周囲にいる人たちはと言えば王族か政治家たちだけなんですから。  だから彼は芸術家を求めずにはいられなかったんだと思うんです。  ワーグナーだけではなく、役者に嵌ってしまうのも同じ理由だと思うんですよね。  映画の中でシシィが語る言葉「逃避は私の保身術よ。」は決してシシィ1人の言葉ではないと KiKi は思います。  これはルートヴィヒの言葉でもあります。  彼は現実から逃避し、変人を装うことにより、我が身を守るのと同時に自分の王国を守ろうとしていたのだと思います。

彼が求めていたのは大国同士がしのぎを削るような「パワーゲーム」の世界ではなかったのです。  彼が求めていたのはドイツの英雄伝説のような「騎士の顔」が見えるような世界だったのです。  小さな集団(小国)がそれぞれに適したあり方で存続し続け、そんな小国同士が信頼と誓約に守られ、お互いを尊重できるようなそんな世界。  やたら図体ばかりがでかくなり、個としての人間の存在が失われ、見えざる力が跋扈するような世界ではなかったのです。  もちろん他国(ドイツ以外の国)から攻撃を受けたときには一丸になって戦うのです。  ドイツ人として。  所詮同じ一族なのですから・・・・。

彼はあるときワーグナー宛の手紙でこんなことを書いています。

「ああ、この世の様相は恐ろしく、淋しげです。  闇の精霊たちが支配し、嘘と裏切りに満ち、誓約は用を成しません。  条約は破り捨てられています。  しかし、まだすべての希望を捨てたわけではありません。  どうか神の御意志によってバイエルンの独立がまっとうされますように。  だがもし独立を捨て、外国に対して抗議する権利を失うようであれば、私は去ります。  私は実権のない亡者の王となりたくはありません。  ああ、ドイツよ。」

でも世の中は、ヨーロッパ情勢はそんな彼の理想とは悉く食い違っていってしまいました。  政治家たちは親プロシア派と親オーストリア派に分れ、それぞれがそれぞれの思惑でわけのわからない(というよりルートヴィヒにしてみれば無意味な)主張を繰り返すばかり・・・・。  彼にしてみればプロシアとオーストリア、そのどちらかを選ぶこと自体がナンセンスであるにも関わらずです。  だから彼は自己主張の一環としてワーグナーに拘ったのではないかと思うんですよね。  王族同士のつきあいよりも、国務よりもワーグナーの方が大事だと断言してはばからない国王が見つめているのは同じドイツの人々の「ドイツ意識高揚」という精神的支柱の確立であって、大帝国の樹立ではないのです。  カムバック、ドイツの神々!!  カムバック、ドイツの英雄たち!! なのです。

彼はシシィとの夜の遠乗りの際、トリスタンの歌詞を暗誦してシシィに語りかけます。  すると彼女は素晴らしい詩だけど音楽は必ずしも必要じゃないと受けます。  それに対しての彼の返事のセリフにこの王様がワーグナーに拘った全ての理由が含まれているように KiKi には感じられました。

「ワーグナーの詩は音楽のためのものです。  別々には語れません。  この融合が世界の人々の心を動かすのです。  理想を広める"言葉"なのです。  ああ、わかっているのにうまく言えない・・・・。  とにかく国民の心を豊かにしたいのです。  世界に貢献したい。  つつましい媒介者の役割でも構わない。」

彼がかくありたいという世界がワーグナーの作品の中にはあるのです。  そしてそんな古きよき時代とは様相を異にしてしまっている現実には耐えられないのです。  でも、彼はまだ諦めていません。  ワーグナーの力を借りて彼が考える「美しきもの」を取り戻したい、ただそれだけなのです。  そのワーグナーがルートヴィヒによって見出され、人生の活路を開いたときに語った言葉がこれまた象徴的だと思うんですよね。  曰く、

「王は残念ながらあまりにも美しく、聡明であり、あまりに感情に豊かで、栄光に満ちている。  だから私は、彼の生命が、この低俗な世界の中で砕けやすい神々の夢のように溶け去ってしまうのではないかと恐れる。」

でもワーグナーはこの時の感激を胸に感謝を忘れず、王の近くに侍り彼の夢を適えるための共同人であるだけで満足するような人物ではありませんでした。  浪費癖、不倫癖な~んていう欠陥(?)をも併せ持った人物でした。  そして、まだ年若く世の中の酸いも甘いも知らずにいる純粋な国王の目にはワーグナーのそういう欠点は見えないのです。  誰かがご衷心申し上げても聞く耳を持たないのです。  なぜならワーグナーは理想的な世界の伝道者であり、聖人だからです。  そんな聖人に悪は似合わないと本気で思っているのです。  それだけにそんな彼の信頼が裏切られたときの絶望感は大きかったのだろうと思います。

KiKi はね、この王様がワーグナーや築城に走ったのは夢想家だったからだとは思いません。  彼は現実と抗うのに疲弊してしまったのだと思います。  シシィ同様、逃避による保身しかとるべき道がなくなってしまった可愛そうな人だったのだと思います。  でも彼はただ逃げていたわけじゃなくて、彼が理想とする世界を世に知らしめるために音楽と建築という表現手段に走った人のように感じられます。  そして、彼の死後、現代においてそんな彼の目論見の半分は実現しているのです。  世界中のワグネリアンが集うバイロイト音楽祭。  ヨーロッパ旅行の目玉の1つとも言うべきノイシュヴァシュタイン城を始めとするお城の数々。  人は彼と同じような「ある意味では無意味な実体のないもの」に憧れそれを求めるからこそ、そこに集まってきます。  彼が広めたかった資本主義、合理主義、パワーゲームとは相容れない「言葉」や「世界観」は確かに人々に受け入れられているのです。  それは近現代社会における価値観からしてみると夢物語であるのには違いないのですが・・・・。

さて、彼はこのような「ワーグナー熱」・「築城熱」であまりにも有名な王様ですが、彼の名を現代に知らしめているのにはあと2つ、別の要素があります。  1つは彼の男色性向。  そして彼の不審な死です。

KiKi はね、彼が男色に走ったのはもともとの性向というのももあったのかもしれないけれど、それだけじゃないように感じます。  上にも書いたように当時のヨーロッパの王族の結婚というのはそのほとんどが政略結婚だったし、さらには近親相姦のオン・パレードです。  こんな実態に貢献しているのは偉大なるハプスブルク家の婚姻外交政策のおかげ・・・・ではありますが。  さてそんな王族の結婚事情の中、ルートヴィヒが唯一正式に婚約した相手、ゾフィも彼とは親戚関係にある一族の1人でした。  2人はワーグナー好きという共通点があり、たまたま王とワーグナーの関係が良好とは言えない時期に巡り会い、ついでにこの王様もお年頃で縁談がひきもきらない時期であり、さらには彼女がシシィの妹だった・・・・・etc. etc. ということもあって、この婚約話はある時期まではとんとん拍子に進みます。  肝心の主役の気持ちは置き去りにしたままでしたけれど・・・・・。

ルートヴィヒはこの時点で「結婚とはこういうものかもしれない」とでも思っていたかのように婚約までのプロセスを進めて行きますが、土壇場でこれをキャンセルするという暴挙に出ます。  この原因を後の学者たちは「シシィへの愛を諦め切れなかった」だの「自身の男色を自覚したからだ」だのと言いますが、KiKi はどれか1つの理由であったとは思えません。  強いて理由を1つだけ挙げるとするならば、彼はとにかく「結婚だけはしたくなかった」んだと思うんですよね。  何故なら彼にとって愛のない結婚は無意味だからです。  当時の王族にとっては当たり前だった政略結婚も近親相姦も彼の美学には反するからです。 

彼が求めている男女の愛は「トリスタンとイゾルデの愛」であり、「ジークフリートとブリュンヒルデの愛」であり、「エルザとオランダ人の愛」であり・・・・要するにこの世にはありえないような、自己犠牲も厭わないような愛だったのではないかと思うのです。  でもそんなものは実在しないし、さらには自由恋愛さえ許されない王族という立場。  そんな中で彼は1度はそんな「愛のない結婚」というか「彼が求めている愛とは異なる結びつき」を受け入れようと努力してみたんだと思うんです。  でも、やっぱりそれには踏み切れなかった。  なぜならそれは彼が拘り続けている「美しきもの」への冒涜だからです。  そして彼にとってそんな「愛」の相手になりうる可能性を持っていたのはシシィだけだからです。  KiKi はこの2人の間に愛があったとは思っていません。  映画の中でシシィ自身が言っているようにそれは「愛」ではなく「幻想」だったと思います。  でも、ルートヴィヒが求めている愛は肉体的なものではなく精神的なものであり、合一の存在として相手を感じられなくてはならなくて、相手のためなら自己犠牲も厭わないほどのものでなくちゃいけないのです。  彼の愛は生のための愛というよりは常に死を見つめた愛だっただろうと思います。

彼は本当は誰よりも「愛されたい気持ち」、「誰かと合一の存在になりたい気持ち」を持っていたんだと思います。  だってワーグナーの世界にど~っぷりと感化されちゃっているのですから!  でもそうであるにも関わらず、それは現世では手に入れられないことにどこかの時点で気がついちゃったんだと思うんですよね。  で、そのことに悩み、焦れ、苦しんじゃったんだと思うんです。  でも彼はそんなありえない愛に憧れる純粋な一面とは裏腹に、史上初の熱烈なワグネリアンでもあるわけですから、官能の世界だけは何となく知っちゃっているのです。  まあ要するに耳年増っていうやつです。  だから彼の思考回路としては、

愛のない結婚はしたくない → 王族の結婚は悪夢である → でも官能の世界への憧れはある → 女を相手にすると結婚じゃなんじゃとうるさい → 女がダメなら男がいるじゃん → 王族でありながら結婚を拒否するのには男色という言い訳は使えるぞ! → とりあえず手を出してみたらワンダフル!! 

てな感じだったのではないかと思うんですよね。  で、とにかく彼は「結婚には絶対に結びつかない官能の世界」だけを求める方向に走っていっちゃったのではないかと思うのです。  そうでなければ彼が生涯をかけてシシィを求め続けたことに説明がつかないように思うのです。  彼の男色という性向、これを KiKi はマスターベーションに近い行為だったのではないかと感じずにはいられないのです。

さて、彼の名前を知らしめるもう1つの出来事、彼の不審な死についてです。  ヴィスコンティはこの映画ではルートヴィヒの死因が他殺であるかのような描き方をしているように感じられます。  要はプロイセンのシンパが「自主独立」にあくまでも拘る王の廃位を望み、彼の奇行、それも都合のよいことに税金の無駄遣いを続け、人前から姿を消し国政に興味の欠片も示さない・・・・・のをいいことに、映画の中のデュルクハイム大佐(ヘルムート・グリーム)が語るように「誰かが王の狂気を望み」、それを口実に彼を監禁した上で殺害・・・・・というような匂いがプンプンと漂ってくるような描き方です。  でもね、KiKi はこの解釈には同意できません。  KiKi は彼は自殺だったんじゃないかと思っています。

確かに親プロイセン派にしてみればルートヴィヒは邪魔な王様だっただろうと思います。  彼の浪費癖を見れば大義名分は立ちやすいし、国政には興味を示さず引き篭もりを続けているのですからそんな彼の行動を利用して彼を廃位する気は満々だっただろうと思います。  そして実際に彼を「狂気」により廃位にまで追い込んでいます。  でもね、彼らはとりあえずルートヴィヒを廃位にはしたものの、その後彼をどのように扱うべきかについてはかなり迷っていたと思うんですよね。  引き篭もりを続け税金の無駄遣いをし、職場放棄している割には国民には人気のある王様なのです。  扱い方を間違えてしまったら、それこそ彼ら自身の身の破滅です。

でも、幸いなことにルートヴィヒは自殺してくれちゃった。  自殺の理由はともかくとして彼らの頭痛の種は消え去ってくれちゃった。  やれやれです。  でも難問が残っています。  それは本当は狂っていたわけじゃない王様を廃位に追い込んだわけですから、いわゆる善後策が必要になっっちゃったんだと思うんですよね。  で、考えに考えた挙句、当時の政治家が導き出した答えが、彼の死を「伝説化」することだったのではないかと思うんです。  要するに本当の死因は明らかにしないで捜査も適当なところで終わらせておいて、色々な風聞を流しておいて人々の愛する王様をその王様自身と民衆が大好きな「伝説の悲劇の英雄」に仕立てあげちゃうっていうことです。  だから未だに彼の死は「謎の死」として扱われ、多くの人たちの興味を喚起しているのではないかと思うんですよね~。  これは KiKi の妄想に過ぎないんだけど、ルートヴィヒと共に亡くなったグッデン博士(ルートヴィヒを診察しないままに「パラノイア」との診断をくだした、王様素行調査委員会の一員)の死にはなんとなく胡散臭いものを感じます。

KiKi が思うに、ルートヴィヒは確かに変人で平和主義者で愛国主義者で同性愛者だったけれど、それと同時に彼が熱烈なるワグネリアンだったことを忘れちゃいけないと思うんですよね。  彼の死亡事件が発生したのは彼が廃位後に幽閉されたベルク城近くのスタルンベルク湖畔でした。  湖と言えば水です。(当たり前か ^^;)  ワーグナーのオペラ「ニーベルングの指環」で、水は浄化の役割を持つ汚れなき世界の象徴ともいえるものでした。  熱烈なるワグネリアンである王の死に場所としてはあまりにもお誂え向きなこの場所での死という現実に、どうしても芝居がかったものを感じずにはいられません。  しかも王が亡くなったとされている場所はその湖の沖ではなく、岸辺に近い浅瀬です。  普通に考えれば溺死するような場所でもありません。  又、その後の診断に寄れば彼の死因は溺死ではなく窒息死、心臓発作の類であるとされています。  KiKi はね、確かに「誰かが王の狂気を望んだ」んだのだろうと思います。  でその誰かの中には当然、当時のバイエルンの内閣政府の人たちがいたと思います。  でも時の内閣政府よりも、誰よりも王の狂気を望んだ人がいるように思うのです。  そしてそれはルートヴィヒ自身なのではないかと思うのです。

ただ彼は狂気を望みつつもそれを恐れてもいたと思うんですよね。  彼の弟のオットーは臨床的にも「発狂」と診断され、長らく幽閉生活を送っていました。  そんな弟の姿を王は見ています。  自分が狂気と診断されれば、弟と同じように幽閉され、彼と同じような非人間的な扱いを受けることになるだろうことは明らかです。  彼はそれを恐れました。  だから、本人の意思で狂気を装いながらも、「統治することを禁じられ、権力を奪われたとしても私は受け入れただろう。  だが、私を狂っていると言い、監禁する・・・・これは許せない。」な~んていう発言もしたんだと思うんですよね。  更にはもはやこれまでという土壇場に至ると、「毒薬を手に入れて欲しい。  もう生きてはいられない。」な~んていう発言もしていたようです。

彼は自分がどんなに努力してもあがいても、この世界はもはやワーグナーが描く伝説世界のような状況には後戻りできないことに気がつき、絶望してしまったのだと思います。  で、そんな世界に自分が迎合することができるかと言えばその答えは否です。  そんな生きて不本意な世界で、王として存在し続けることができるかと言えばそれも又否だったんだと思うんですよね。  でも、彼の気持ちがどうであれ、彼は一国の王です。  そうそう簡単にその場を立ち去ることはできません。  まして彼の王権は彼が自身の手で力づくでどこかからもぎ取ったものではなく、神様から授けられた権威、力、彼の存在意義そのものなのです。  だから彼はヴォータンのように破滅を、死を、神々の黄昏を求めたのではないかと思うのです。  理想の王国のために、この世界の浄化を求めて・・・・。  彼にとってスタルンベルク湖での死は彼の自己犠牲の舞台だったのではないかと思います。  彼は死の瞬間に自分はトリスタンであり、ジークフリートであり、ヴォータンであると思っていたのではないかと感じるのです。

全体的に重々しく、夜や雪の中の撮影が多いこともあって暗めの作品に仕上がっていますが、そんな中でかなりほっとできる場面の1つとしてご紹介しておきたいのが、ワーグナーが妻のコジマの誕生日(及びクリスマス)に「ジークフリート牧歌」をプレゼントするシーンです。  別名「階段の音楽」とも呼ばれるこの曲にまつわるエピソードを見事に再現してくれていて、ワグネリアンの KiKi には嬉しいシーンでした。  それにしても・・・・・。  ワーグナー役のトレヴァー・ハワードは極似で唖然とさせられます。  ヴィスコンティが拘ったのは舞台装飾のみならず、役者の抜擢にも徹底していたのがよくわかります。  ルートヴィヒ役のヘルムート・バーガーはまさにはまり役。  シシィ役のロミー・シュナイダーの貫禄と美しさには説得力があります。  それから・・・・・。  書き出すと止まらなくなりそうなのでここで終わりにしておきましょう。  ものすご~く長時間の映画ではありますが、あとは観てのお楽しみ♪ということで(笑)。

 

 

 

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このページは、KiKi (Brunnhilde)が2006年8月18日 12:35に書いたブログ記事です。

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