日本を教育した人々 斎藤孝

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先日「現代語訳 学問のすすめ」を読んだ際、巻末で紹介されているちくま新書のその他の本の紹介ページでこの本に興味を持ち、Amazon Market Place で中古本を購入しました。  最近では Book-Off とか Amazon Market Place で「ちょっと読んでみようかな?」と思った本を廉価で購入できるのは KiKi のような乱読系の人間にはとってもありがたい限りです。  なかなか図書館に足を運ぶ時間が作れない(ちょっとだけ遠いし、図書館に行くと数時間はそこで過ごしてしまうことになるので、それなりの時間的余裕がないとちょっとねぇ・・・・・)KiKi にとっては図書館と同じくらい重宝しています。  そうそう、本格的に山篭りするようになると、Lothlórien_山小舎のある村にはそもそも図書館っていうものがないんだっけ・・・・・ ^^;  これは問題だよなぁ・・・・・。

ま、それはさておき、ここのところ「のだめ」ばっかりに注力していた観がなきにしもあらずのこのブログ。  でも、決して漫画しか読んでいなかったわけではないのですよ。  てなわけで、今日はようやく読了したこちらのご紹介です。

日本を教育した人々
著:斎藤孝  ちくま新書

41wF41eKncL__SL500_AA240_.jpg  (Amazon)

 

極東の島国で資源にも乏しい日本は、「教育」を半ば国民的な「宗教」として国力を築いてきた。  ところが今日、いじめや学力崩壊によって、その「教育」が壊れつつある。  背景には社会的国民的紐帯の解体という、より深刻な問題が横たわっている。  日本人を日本人たらしめた教育とは、どのようなものだったのだろうか。  日本を教育したといえる、松下村塾の吉田松陰、慶応義塾の福澤諭吉、木曜会の夏目漱石、戦後日本人に巨大な影響を与えた司馬遼太郎を例に、彼らの言説と行動の教育作用の分析をとおして、その問いに答える。  (新書本カバー扉より転載)

「教育改革」の文字を見ない日はない・・・・・と言っても過言ではない昨今、では、どんな教育改革をしようとしているのか?、そもそも何のための教育か?、といったことが明確に見えてこない・・・・・そんな想いを KiKi は抱えています。  いったい何をどのように変えていこうとしているんだろう?  その方向性は正しいのだろうか?  恥ずかしながら最高学府を出ているにも関わらず、KiKi 自身がこれといった明確な Vision を持ち合わせていません。  でも、40代を迎える頃から、自分自身の生き方を見直す必要性を感じ始めたのとほぼ同時に、この国に今一番必要なものは「教育改革」なんじゃないか?という漠然とした想いも感じ始めていた KiKi。(Vision もないくせにねぇ~ ^^;)  そんなこともあってこの本に興味を持ちました。  

 

この本でとりあげられているのは江戸末期から明治期を経て現在に至るまでの間で、著者が「日本人に教育的影響を強く与えた人」と定義するらしい4名が取り上げられています。

幕末を代表し吉田松陰。  明治維新を迎え福澤諭吉。  「国家」という概念が定着しつつある明治期を代表し夏目漱石。  そして、とっても身近なところで司馬遼太郎。  どうしてこの4名なのか・・・・はともかくとして、読了してみて一番感じたことは、 「志」、「向学心」、「日本人としての近代的自我」、「正しい(?)憧れ」、「見失われたアイデンティティ」といったような耳障りだけはいいけれど、今では本質がぐらついている感もなきにしもあらずのそれらの言葉の意味するところを改めて考え直すよい機会となったなぁということです。

<吉田松陰の章>

松陰は新しく塾に入る若者に対して、いま自分が何をしたいのか、この塾になぜ入ってくるのかという問いを必ず投げかけた。  (中略)  松陰が伝えようとしたのは、いま自分がどういう世界に生きて、何をしなければならないか、何を使命として生きなければならないかという意識だった。  その使命感に対するセンスがなければ、学問をしても意味がない。  もし学問をする意味があるとすれば、そのような使命感を自覚するところにある。  (本文より転載)

う~ん、のっけから痛いところをついてきました。  そこが KiKi の一番欠けているところ・・・・と10年ほど前に気がついたものの、未だによくわからないでウロウロしているところなのですよぉ・・・・・。  

今日の世に生まれて国の恩恵を受けている者は、国家の杞憂をもって我が杞憂として、国家と運命を共にする決意を持つべきである。  国家とともにやっていこうという志のない人は、独立した人格とはいえない という意味だ。  (本文より転載 松陰の言葉を斎藤氏がかみくだいたもの)

ああ、やっぱりそこですか?  KiKi の迷いの根本には「自分には愛国心がない」と思っているところに何か根深いものがあるんじゃないかと常々考えていたんですけど、やっぱり KiKi は「独立した人格とはいえない」程度の人間なのかもしれません。  さすがに KiKi は斎藤氏が例示しているような「年金保険料を払わない」とか「電気代を払わない」とか「税金を納めない」とかいうような極端には走っていないけれど(もっとも固定資産税の滞納は常習犯だけど・・・・)、どうしても国家と一緒にやっていこうとは思い切れていなくて、たまたまここにいるという意識が強いんですよねぇ。  ま、好んで別の国で暮らそうとまでは思っていない・・・・・のかな?  まだほんの少しだけオーストリアはウィーンに対する憧れが残っているけれど・・・・・。

志について松陰は、「志が定まるか定まらぬかは、みずから決断するか否かにかかっている」と言っている。  すなわち「決断しろ」、決断によって志がピシッと定まり、そのことによって学問も本気でやる気になるのだ、と松陰は言うのだ。  (本文より転載)

うんうん、それはわかるし、KiKi もそう思うんだけど、何を決断するか?が見えてこない・・・・というか、迷っているというか。  精神論的には松陰先生の仰ることはいちいちもっともなんだけど、どうしてもどこに照準を合わせるべきかわからない KiKi のような人間はどうすればいいんでしょうか?    

 

<福澤諭吉の章>

そもそも日本の教育は、実は身体から入る教育だった。  たとえば、正座で数時間いるのは、とても足が痛いし、合理的とは言えない。  もっと疲れにくい椅子でリラックスして勉強したほうが授業は効率的なので、いまはそうしている。  しかし、一見すると非合理的に見える身体の型のなかにも、意味のある合理性があった。  つまり自分の「学ぶ構え」を、姿勢として崩さすにつくっていく、自分の身を律していくと同時に、身体に対する意識の教育も行っていたわけである。  日本の教育は学問の内容と同時に身体に対する意識の教育も行っていた。  身体をコントロールできるということは、自分の中の欲望をコントロールできるということにつながるからだ。  (本文より転載)

なるほど~。  それは気がつきませんでした。  KiKi が迷いっぱなしの40代を終えようとしているのは「正座が苦手」だから・・・・・というのもあるのかもしれません。  ある意味で、先日の秋山真之さんじゃないけれど「学問をするのに必要な根気も2流。」というのは KiKi のことだ・・・・と思わないでもないし・・・・・。  興味の赴くままにつまみ食いばかりしていて、そこそこできるようになる(身についたと自分で納得する)とすぐに飽きちゃって「他に面白いものはないだろうか??」とハンターのごとくウロウロする。  それが KiKi だと最近思う。

たしかに自分の生活だけを考えれば、外資系企業のほうが待遇はいいかもしれない。  そのように給与体系がなっている。  優秀な人間がそれだけの報酬を得るのは当たり前だと言ってしまえばそれまでだが、「それは本末転倒だ」と諭吉は言っているのだ。  諭吉は西洋のものを輸入して、ちゃんと身につけろと言い続けているが、その大本には日本が独立するため、という目的がある。  (中略)  彼は西洋事情を学び、西洋のスタンダードを持ちこんだが、西洋になびけと奨励した人間だったのだろうか。  それは違う。  あくまで福澤が言ったのは、「不羈独立の精神(他から何の束縛も受けないこと。  何の制約も受けることなく、みずからの考えに従って事を行うこと。) 」だった。  そこを忘れてはいけない。  (本文より転載)

う~ん、耳が痛いなぁ。  これってまさに KiKi が陥った落とし穴のことだと思うんですよね。  自分の生活を成り立たせるために、まだ若かりし頃のKiKi は女性でもそこそこの可能性が開かれている外資系を選んで、そこで自分なりには頑張っていわゆる「グローバル・スタンダード」なるものを学び、それはそれでものすご~く目を開かされたけれど、40代を迎えるちょっと前に考えちゃったんですよね。  「このままでいいのか?」って。  外資系の会社の日本オフィスってどことなく「現代の植民地」みたいなところがあって、ある時期を境に「何のために私は・・・・?」という想いを抱えるようになっちゃった。  そのことと、生来持っている田舎指向というか LOHAS 指向が相俟って「40にして惑い続け」の時代に突入しちゃって今に至るわけだけど、じゃあどうすればいいのか?がわからない・・・・・ ^^;  まあ、その果ての行動に「Lothlórien_山小舎」があるわけだけど、そこで何をする?がまだまだ固まっていない。  

諭吉にとっては、知識がモラルに結びついているのは当たり前のことだった。  なぜかというと、学問する目的は独立の維持・確保にあるわけで「不羈独立」を実現するための学問といえば、モラルを抜きにはまったく考えられなかったからである。  (本文より転載)

確かにねぇ。  モラルっていう言葉、今では半ば死語と化しているような気がしないでもない。

 

<夏目漱石の章>

どちらの文体を選択するかは、作者にとって大変大きな問題である。  例えば、古い文体で書けば、古い日本の意識がまとわりついてくる。  「もののあはれ」を表現するのであれば、古い日本語でもいい。  しかし新しい人間の意識やこれからのモダンな日本人が考えるべきことは何かを考えていくと、どうしてもこれまでの日本語では、江戸時代までの古い考え方の枠組みから決別できない。  漱石は江戸のことは好きだったが、しかし自分が文学の主題としたものは、「エゴイズム」「自我」「自己本位」という欧米的なものだったので、古い日本語ではそのテーマを明確に追求できない。  (本文より転載)

なるほど~。  これは気がつきませんでした。  いわゆる文学史的なイベントとして二葉亭四迷の「言文一致体」という動きがあったことは理解していたけれど、確かに「○○で候」とか「いとをかし」というそれまでの日本語の文体と「エゴイズム」「自我」「自己本位」という価値観(?)の相性はどう考えてもよろしくなさそうです。  しかもこの後の章で斎藤氏は「漱石に漢文の素養があったことが、近代日本にふさわしい抽象的な思考や言葉遣いを可能にした大きな要因である。」と述べられていて、そこは KiKi も大きく頷いてしまう部分です。  しかも漱石の場合は漢文の素養があるだけじゃなく、もともとはと言えば英文学者だから、ある意味で一人身体の中で「東洋的なもの」と「西洋的なもの」のぶつかり合いが生じた人で、そこから「自己本位」に目覚めた・・・・というのは非常に説得力のある話だと感じました。

否定しようがすまいが、漱石には欧米の物の考え方がすでに身についてしまっているのである。  にもかかわらず、漱石の好みは東洋趣味、あるいは江戸趣味にある。  (中略)  漱石は自己本位を追及したが、最後はやはり「則天去私(自己本位の考えを捨てて、自然の中において物事を見極めようとする姿勢。)」と言って死んでいきたいと思ったのだろう。  近代的な自我を作り、日本人の意識を近代化するという作業を行った上で、やはり戻っていくところは精神の安らぎだった。  これが日本人に刷り込まれた東洋的な世界観だろうと思う。  (本文より転載)

なるほど。  KiKi は子供時代(中学生ぐらいまで)に漱石の作品はいくつか読んだんだけど、その後「今更夏目漱石?」というようなオコガマシイ考えにより、その後ただの一度も再読したことはなかったんですよね。  で、子供時代に読んだ漱石の小説は「楽しい読み物」以上でも以下でもなかった・・・・・そんな気がしないでもない。  一度、こういう(↑)人だったという意識をもって、夏目漱石の小説を読み返してみると面白いかもしれません。  ひょっとしたら、今の KiKi の迷いを解消するための何らかのヒントが得られるかもしれないし・・・・・。    

 

<司馬遼太郎の章>

彼は、イデオロギーをひじょうに嫌ったので、「日本がこうなるべきだ」という指針をあけすけに示すタイプではなかった。  「こうあるべきだ」と決めつける傲慢さや無粋な感じを避けて日本人の根っこはどこにあるのか、拠り所はどこにあるのかという問題を提示しながら、暗に指し示していこうとしたのである。  (本文より転載)

なるほど~。  確かに KiKi は司馬さんの小説を読むとほぼ必ず・・・・と言っていいほど、「日本人って・・・・?」とか「私は何者?」と考えさせられているような気がします。  

司馬は敗戦によって日本が滅びたと思った。  だから「この国を滅ぼしたのはいったい誰か。  何がそうさせたのか」という問いを持ち続け、精力的に作品を発表したのである。  だが、日本は滅びてはいなかった。  確かに戦災によって日本の多くの都市は灰燼に帰した。  (中略)  民族として有していた知力や気力、向上心、蓄積されていた技術力や廉潔を尊ぶ倫理観など、それらすべてがまだ生きていて、戦後の復興につながっていったのである。  本当に倫理観が崩れて日本が危なくなったのは、むしろ1980年以降である。  戦後の復興時の日本は、実は日本らしかった。  だから日本は滅びたのではなく、昭和初期の狂信的な国家主義に支配された考え方から解放されて、本来の日本人が民族として備えていた経済合理性や向上心に重きを置くあり方へと、復帰したと考えるのがむしろ自然である。  しかし、敗戦から時間が経って経済的に余裕ができてくると、今度は拝金主義になってしまった。  (本文より転載)

KiKi は「敗戦によって日本が滅びた」とは思ったことがないけれど、「倫理観が崩れて日本が危なくなったのは1980年以降である。」というのは何となく感覚的に理解できるような気がするんですよね。  1980年代といえば KiKi が20代を過ごした時代です。  確かに20代になって KiKi の中で今にして思うと価値観の転換・・・・のようなことがあったように思うんです。  当時の KiKi はそれを親の価値観からの脱皮≒成長 と捉えていたようなところがあって、いわば「自我の確立」だと思っていたけれど、今になって思うとそれはさらに進んだエゴイズムだった・・・・そんな風に感じ始めたのが90年代の終わりごろでした。  

司馬のいう志は、もとより自分一人の利益のために何かをするというようなものではない。  自分のことはさておいても、公のため、みんなのために何かを成し遂げたいという種類のものである。  そのためには、たとえ命を失っても構わないというような考え方を貴重なものと考えるのである。  (本文より転載)

う~ん。  それが美しいものだっていうのはよくわかる。  でも、どうしても KiKi が考えてしまうのは「たとえ命を失っても構わない」というのは狂信的にすぎるのではないかと・・・・・。  でも、心意気の問題として、「自分一人の利益を追求する」では人生の意義として限界があるのはよくわかる。  

イデオロギーを、日本訳すれば、「正義の体系」といってよいでしょう。  イデオロギーにおける正義というのは、必ずその中心の核にあたるところに「絶対のうそ」があります。  (本文より転載)

これは KiKi にとってとてもキャッチーな言葉です。  「絶対的な正義なんていうものは存在しない。  正義とは立場が変われば変わるもの」というのが40代の KiKi が得た確信の1つなので、まさにそのとおりだと思う。  でもね、KiKi の中の自己矛盾はそんな風に思いつつもグローバル・スタンダードに毒されちゃったせいか、常に「そもそもこの問題を解決する上であるべき姿は何?」を考えずにはいられないところ・・・・・ ^^;  ゴールを描かない状態ではアクションができない弱さ・・・・みたいなものがあるんですよね~。  

司馬遼太郎は、大きな意味でのビジネスセンスをもった人間に、この国を経営してほしいと思っていたのだろう。  経営センスのない人間、合理的な判断が下せない人間に任せるのは避けたいと思っていた。  かといって、金儲けばかり考えている人間にも任せたくない。  経済的なセンスがあると同時に、公共的な志をもっていて欲しい。  その2つを両立させ、バランスを心がけてほしいとおもっていたわけだ。  (本文より転載)

う~ん、これが KiKi が不惑の40代の間、悩み続け答えを得ることができていない究極のポイントなんですよね~。  このバランスってある意味両立がものすご~く難しいと思うんですよ。  結果オーライ的なバランス感覚っていうのは確かにあると思う。  でも、それを意志の力でコントロールすることができる人間なんて本当にいるんだろうか??  結局のところ経営・ビジネスセンスの行きつくところは Going Concern だし、利益の追求だし・・・・・。  公共的ということはある意味で社会主義的な要素を無視できないし・・・・・。  確かに戦後復興から繁栄を謳歌し始めた日本はいろいろな意味で奇跡的な国だったと思うんですよね。  資本主義 & 自由主義を標榜しながらも、社会主義的ないいところもあって、それが何とか破綻せずに維持できていた時代。  でもそれはモラルがあったから??  公共的な志があったから???  KiKi にはまだよくわからない。

考えさせられることが多かった読書だったけれど、KiKi の迷いはまだまだ続きそうです。  でも、少しだけ頭の中を整理するのには役だったような気がしないでもありません。  斎藤さんの見解に100%同意することはできないなぁと感じるところもあったけれど、さすが頭のよい方は「整理整頓がお上手」です(笑)          

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