冬虫夏草 梨木香歩

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先日、大好きな作家上橋菜穂子さんの「物語ること、生きること」を読み、その流れから久々の「上橋ワールド堪能欲」に突き動かされるように「守り人 & 旅人シリーズ」と「獣の奏者」、さらには「狐笛のかなた」の再読月間に突入してしまい、読書関連エントリーからはちょっと遠ざかってしまっていました。  直近で最後に書いた読書関連エントリーが4月6日ですから、1か月以上のご無沙汰です。  そしてようやく手にしたのが図書館の棚に戻っていたこの「冬虫夏草」。  発刊されていたことは随分前に知っていたけれど、今のところハードカバー本だけしか出ていないし、ついつい「いずれ・・・・」と後回しにしていたのですが、ようやく KiKi にも読む順番が回ってきたようです。  

でも、これ、「家守綺譚」の続編ということなので、結局「冬虫夏草」に突入する前に「家守綺譚」の再読というプロセス(?)も要してしまったので結果、読書関連エントリーの再開が今日になってしまったという次第。  これでも関連作品である「村田エフェンディ~」再読には手を出さなかっただけでも KiKi としては大譲歩だったんですよ(苦笑)


冬虫夏草
著:梨木香歩 新潮社

51ETZt4Pm8L._SL500_AA300_.jpg  (Amazon)

疏水に近い亡友の生家の守りを託されている、駆け出しもの書きの綿貫征四郎。  行方知れずになって半年あまりが経つ愛犬ゴローの目撃情報に加え、イワナの夫婦者が営むという宿屋に泊まってみたい誘惑に勝てず、家も原稿もほっぽり出して分け入った秋色いや増す鈴鹿の山襞深くで、綿貫がしみじみと瞠目させられたもの。  それは、自然の猛威に抗いはせぬが心の背筋はすっくと伸ばし、冬なら冬を、夏なら夏を生きぬこうとする真摯な姿だった。  人びとも、人間にあらざる者たちも...。  『家守綺譚』の主人公にして新米精神労働者たる綿貫征四郎が、鈴鹿山中で繰り広げる心の冒険の旅。  (単行本帯より転載)

梨木さんの本を手に取ると多くの場合、KiKi はまずその装丁の美しさに思わず見入ってしまいます。  品があって楚々としていて美しい。  西洋的なゴージャス観とは対極にある凛とした佇まいのようなものに圧倒されます。  そして、本である以上「読んでナンボ」のものではあることは百も承知なんだけど、「こんな装丁の本を手にしているだけでこの本の中に描かれている精神性のようなものに感化されるんじゃないか?」というような気分にさせる趣とでも呼びたいもの、そんなものをビシビシと感じるんですよね~。  今回の「冬虫夏草」もまさにそんな1冊で、実は読み始める前にひたすら装丁を眺めつづけて数時間という時を過ごしてしまいました。

そしてようやく読み始めたのはお布団の中。  何とはなしにこの物語の読書に適しているのは明るい昼間ではないような気がしたんですよね。  特に今はすべての生命が長い冬の眠りから覚め、ほとばしる生命を謳歌しまくっている春です。  我がLothlórien_山小舎には「蛍光灯」はないうえに、KiKi のお布団脇の読書灯は和紙のシェードがかかった白熱電球(もどきのLED電球)の灯りのみなので、そのどこか頼りなげな光の中こそこんな物語を読むにはピッタリくると思うのです。

さて、「家守綺譚」では家からほとんど出なかった主人公の綿貫征四郎でしたが、本作では愛犬ゴローがいなくなったことをきっかけに、書斎を離れて旅に出ます。  KiKi 自身には物語の舞台近辺の土地勘が皆無なので、どこをどう歩いているのかとか、それがどの程度の行程なのかとか、どんな景色の所なのか等々に関しては全くと言っていいほど分からないのがちょっと残念・・・・・。  ただでさえよく分かっていないところにもってきて、征四郎さんがちゃんと目的があるようでいてどこか風来坊的な動き方をしてくれちゃうので、地図でそれなりに行程を追っているつもりでも時に迷子になること暫し・・・・。  ま、逆に言えばこの「行き当たりばったり感」こそが、人という存在の小ささの1つの証左でもあるわけだし、行き当たりばったりだからこそ出会えるものがあるとも感じられるわけですが・・・・・・。

さて、梨木さんの作品を読むと常に呼び起こされるが「失われつつある日本的なものに対する郷愁」とでも呼びたい感覚です。  そして「人ならぬ者」が登場する物語を読むと必ずと言っていいほど思い出すのがかつて読んで感銘を受けた内山節さんの「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」という本のことです。  

今作でも「人ならぬ者」とも「人」とも分け隔てなく接し、その存在をスンナリと受け入れることができる綿貫さんの立ち位置やそんな彼が出会う人々の姿に、現代的な生活を送る私たちが失ってしまったある種の「知」みたいなもの(別の名前で言うなら「迷信」)を感じ、恐らくこの「知」の本質は日本人ならばかつては当たり前のように持っていた1つの精神世界だったのだろうなと感じました。

件の本によれば私たち日本人が狐にだまされなくなった理由には以下のような要因が考えられるのだそうです。 

1. 高度成長期(経済成長)に人間が「経済的動物」に変貌し、「経済的価値があらゆるものに優先する価値になった」ことにより、かつては日本人が持っていた「非経済的なもの(≒自然の生命・神)に包まれて自分たちは生命を維持しているという感覚を失った。

2. 科学的に説明できないものはすべて誤りという風潮が広がり、科学的にとらえることを進歩的態度とみなす精神がひろがり、結果として、科学では捉えることのできない世界を掴むことのできない人間が増えた。

3. 1960年代から情報・コミュニケーションのツールが電話やTV、漫画雑誌を含むいわゆる「マスコミ」経由が主軸となり、村社会では慣例的だった「農業暦」をはじめとする自然からの情報取得・自分の中での選択・咀嚼というプロセスが減り、自分の周りにいる人を経由しての情報伝達が減ることにより、意思疎通も疎遠になりがちになり、伝言ゲームにありがちな「話が変わる(≒伝える人なりの脚色)」ことはなくなり、よきにつけ悪しきにつけ、与えられた情報を事実として受け取り、その感想のみを感じ、自分なりに捉えなおすというプロセスが衰退した。

4. 受験教育化することにより学校教育が偏差値をあげるための合理主義に支配されるようになり、必ず「正解」があるような教育を人々が求めるようになったことにより、「正解」も「誤り」もなく成立されていた「知」が弱体化していった。

5. 自然の中に己が帰りたい祈りの世界を見なくなり、人の自然観・死生観が変わった。

この物語の中でも綿貫さんの友人である南川氏は「仮にも最高学府を出た人間がなぜそういう迷妄を云う。」というセリフを吐きます。  このセリフから自然とは必ずしも縁遠いわけではなく逆に自然観察に邁進している南川さんであってさえも、「科学的ではないことは迷妄」と決めてかかっている姿勢が見受けられます。

でも、それと時間軸を同じくする「最高学府を出ていたとは思えない山里に暮らす人々」や「隣家のおかみさん」は同じ話に対しても南川氏とは全く異なる反応をします。  隣のおかみさんの「ムジナは、教養がない」というセリフなどは南川氏の「最高学府~」と見事な対になっているセリフだと感じます。  こういう所謂フツーの人たちの日常生活の中では天狗も河童も「迷妄」ではなかったし、イワナの夫婦が宿をやっているな~んていう奇天烈な話であってさえも、「まあ、そんなこともあるかいな・・・・」というレベルで受け入れられており、2つの精神世界が共存していた時代があったことを伺わせます。

内山さんの説によれば、「キツネにだまされた」という話が日本人の中から消え始めたのは1965年ごろからなのだそうです。  そしてその風潮は恐らく明治から大正、場合によっては昭和初期ぐらいにかけてあたりを意識して描かれているこの物語の時代には特に都市や知識階級の中では芽生え始めていた・・・・・ということなんでしょうね。  そしてそのぐらいの時代から、人間はより快適な生活を求めて「自然を征服する」活動にも積極的になっていったということなのだろうと感じました。(久々に綿貫さんの前に現れた高堂さんが語った3つぐらいの村がなくなるというお話・・・・とか)

この物語の中に里山の雰囲気を感じるのは、やはり自然を征服するものとはとらえず共存するものと捉える日本人のDNAの中に刷り込まれたある種の「知」が満ちているからだと感じます。  その知の本質は「自然の中で生かしてもらっている」という謙虚さ、そして「人智を超えたものへの畏れ」という感覚なんだろうと感じます。  

そういう世界の中でもっとも重要視されるのは「人が共に仲良く助け合って住まうこと」。  そして「人が(自然から)食させていただく感謝の念」なのではないかなぁ・・・・と。  この物語の中に出てくる食べ物はどれもこれも決して都会のオシャレなレストランでは出てきそうもない、どちらかといえば「○○おばあちゃんのレシピ」とでも呼びたいような田舎臭い食べ物ばかりです。  でもその美味しそうなこと、このうえない!  そこにはやはり「恵み」という言葉に集約される大らかさ、包容力みたいなものを感じます。

綿貫がしみじみと瞠目させられたもの。  それは、自然の猛威に抗いはせぬが心の背筋はすっくと伸ばし、冬なら冬を、夏なら夏を生き抜こうとする真摯な姿だった。  人々も、人間にあらざる者たちも・・・・・。

単行本の帯にあるこの言葉に深い精神性を感じずにはいられません。  そして「心の背筋を伸ばし、季節の中を生き抜こうとする真摯な姿」を保つために必要なのは1人の力ではどこか無理があり、互いに助け合う存在が必要なんだろうなと感じます。  その相手が人であれ、人ならぬ者であれ。  そんなことを考えれば考えるほど、最後のゴローとの出会いが言いようもなく感動的に胸に迫ってきます。

呼び声に応えるように一目散に駆け寄ってくるゴロ―の姿に心の中で優しい「馬鹿」を何度も言い続け、そして足元まで来て千切れんばかりに尾っぽを振るゴローに「家へ、帰るぞ。」という言葉をかける主人公。  この「家へ、帰るぞ」という言葉は、一見何でもない言葉のようだけど、この場面でこれほど素敵な言葉はないと感じずにはいられません。  彼らには帰る家がある。  そして、そこに一緒に帰ることができる連れがいる。  どこか普通の社会生活からはちょっと外れた生き方をし、隣のおかみさんに勧められる縁談にも消極的だった綿貫さんだけど、ゴローとの共同生活の中で彼の中の何かが少しほぐれてきたような気がして、KiKi は嬉しかった・・・・・。

    

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