梨木香歩の最近のブログ記事

久々の梨木作品です。

僕は、そして僕たちはどう生きるか
著:梨木香歩 理論社

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やあ。  よかったら、ここにおいでよ。  気に入ったら、ここが君の席だよ。  コペル君14歳、考える。  春の朝、近所の公園で、叔父のノボちゃんにばったり会った。  そこから思いもよらぬ一日がはじまり...。  少年の日の感情と思考を描く青春小説。  (Amazon 内容紹介より転載)

これまで梨木作品はその大半を読んできたけれど、この作品はこれまでの作品とはどこか一線を画している印象です。  梨木さんは常に現代社会にある種の不安、危うさのようなものを感じ、それをどちらかというと刺激は強すぎず、でも心にはずっしりと残る文体、語彙で語りかけるタイプの作家だと KiKi は思っていたのですが、この作品ではそんな確信犯的に自ら纏い続けてきたオブラートをばっさりと脱ぎ捨て、ある種の意志表明をした・・・・・そんな印象です。

タイトルからして吉野源三郎さんの「君たちはどう生きるか」を念頭に書いた作品であることが容易に察せられるのですが、主人公の名前(呼び名)も同じコペル。  でも2人のコペルの生きた時代の違いはエピソードの数々から明らかです。  その時代の違いが「生きる」ことに対する姿勢の安易さや、現代社会に溢れる欺瞞の数々の1つの要因なのかもしれません。

14歳の少年の1日の出来事の割には重いテーマが満載・・・・なのですが、逆に言えばある種の「気づき」が、そしてその気づきに誘発された「思考」が、それまで他人事、どこか自分とは関係ない世界の出来事として見聞きしつつも無視してきたようなことにあらためて真剣に目を向けてきた、その証としての出来事の多さ・・・・・だったのかもしれません。  とは思うのですが、このコペル君。  どこか不自然な気がするのは気のせいでしょうか??  言い訳のように「子供らしくない子」であることを、そう言われていることを自覚している子であるというのも、う~ん・・・・・。

まず、土壌研究を趣味とするコペル君と草木染作家のおじさん、さらには小学校時代の親友だったユウジン君のおばあちゃんの自然保護運動(と、こんな安易な言葉で語るようなものではないけれど)あたりのエピソードではサラリと環境問題を語ります。  でもそれはこの物語のメインテーマではなく、もっと重いものがこの後続々と出てくるんです。

戦時中に兵役を逃れ山に隠れ住んでいた米谷さんのエピソードでは「個と集団」に関する1つの視座を、ユウジン君が小学生時代に可愛がっていたコッコちゃんのエピソードでは教育問題と米谷さんエピソードに通じる「個と集団」に関するポイントを。  そしてコッコちゃんエピソードとユウジン君ちの敷地の片隅に隠れ住んでいたインジャのエピソードでは「耳触りの良い言葉に隠された悪意」を・・・・と、アプローチこそ異なれど KiKi が日頃から感じていたある種のこの社会の危うさをこれでもかっていうぐらいストレートに語り始めます。


鳥と雲と薬草袋 梨木香歩

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今回図書館から借り出してきた本の最後をしめくくるのは梨木香歩さんのエッセイです。  今日は2つのエントリーを書いているので短め Review になります。

鳥と雲と薬草袋
著:梨木香歩 新潮社

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鳥のように、雲のように、その土地を旅する。  ゆかしい地名に心惹かれる―地名に召喚される土地の記憶をものがたる葉篇随筆。

作家の胸奥の「ものがたり」がはぐくまれる場所に、滋養を与える旅の記憶。  49の土地の来歴を綴り重ねた葉篇随筆。  読む者の心も、はるばると時を超える。  旅に持ち歩く「薬草袋」のなかの、いい匂いのハーブのブーケや、愛着のある思い出のメモの切れ端のような......  日常を生きるときの常備薬ともなり、魂を活性化する、軽やかな愛蔵本。  (単行本帯より転載)

梨木香歩という人の感性がもっともストレートに伝わってくるのはエッセイにあるような気がします。  未だ物語としては構築されていない、それでも感情を揺り動かし「何か」を感じたこと、それが短い文章の中に凝縮され、さらにはまだどことなく「とりとめのなさ」みたいなものを感じさせる書き物。  それが彼女のエッセイだと感じます。

今回のエッセイは地名からイメージされるあれこれが彼女らしい繊細な文章で綴られます。  一葉一葉に「音」に対する彼女の繊細な感性が滲み出ています。

彼女の作品を読むたびに KiKi が感じるのは、梨木香歩さんという人は人間という生き物にどこか諦めのようなものを感じつつも本当の意味では見捨てきれない拘りみたいなものをずっと抱えて生きている人なのではないか?ということです。  そしてその見捨てきれない拘りの根っこにあるものが人間が生きて受け継いでここまで生き延びてきたという気が遠くなるような時の流れに対する愛着のようなものがあるように感じます。

「古代の言葉はかっちりしたものではなくもっと風が吹く音のような、小鳥のさえずりのようなものだったのではないかと・・・・」

という言葉の中に生きとし生けるものの言葉とは呼べないほどの囁きのようなものを感じます。  TVのバラエティ番組の中で「目立つこと」を主眼に喋り捲るタレントたち。  その姿をなぞるように公共の場(例えば電車の中やバスの中、喫茶店の中等々)で大声を挙げて喋り捲る現代人。  風が吹くような小鳥のさえずりのような音を奏でていた人間の末裔が何千年という時を経た結果、そうなったことを考えると、その長い時の流れの中で何か大切なものを捨て去ってきたに違いないと思わずにはいられません。

冬虫夏草 梨木香歩

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先日、大好きな作家上橋菜穂子さんの「物語ること、生きること」を読み、その流れから久々の「上橋ワールド堪能欲」に突き動かされるように「守り人 & 旅人シリーズ」と「獣の奏者」、さらには「狐笛のかなた」の再読月間に突入してしまい、読書関連エントリーからはちょっと遠ざかってしまっていました。  直近で最後に書いた読書関連エントリーが4月6日ですから、1か月以上のご無沙汰です。  そしてようやく手にしたのが図書館の棚に戻っていたこの「冬虫夏草」。  発刊されていたことは随分前に知っていたけれど、今のところハードカバー本だけしか出ていないし、ついつい「いずれ・・・・」と後回しにしていたのですが、ようやく KiKi にも読む順番が回ってきたようです。  

でも、これ、「家守綺譚」の続編ということなので、結局「冬虫夏草」に突入する前に「家守綺譚」の再読というプロセス(?)も要してしまったので結果、読書関連エントリーの再開が今日になってしまったという次第。  これでも関連作品である「村田エフェンディ~」再読には手を出さなかっただけでも KiKi としては大譲歩だったんですよ(苦笑)


冬虫夏草
著:梨木香歩 新潮社

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疏水に近い亡友の生家の守りを託されている、駆け出しもの書きの綿貫征四郎。  行方知れずになって半年あまりが経つ愛犬ゴローの目撃情報に加え、イワナの夫婦者が営むという宿屋に泊まってみたい誘惑に勝てず、家も原稿もほっぽり出して分け入った秋色いや増す鈴鹿の山襞深くで、綿貫がしみじみと瞠目させられたもの。  それは、自然の猛威に抗いはせぬが心の背筋はすっくと伸ばし、冬なら冬を、夏なら夏を生きぬこうとする真摯な姿だった。  人びとも、人間にあらざる者たちも...。  『家守綺譚』の主人公にして新米精神労働者たる綿貫征四郎が、鈴鹿山中で繰り広げる心の冒険の旅。  (単行本帯より転載)

梨木さんの本を手に取ると多くの場合、KiKi はまずその装丁の美しさに思わず見入ってしまいます。  品があって楚々としていて美しい。  西洋的なゴージャス観とは対極にある凛とした佇まいのようなものに圧倒されます。  そして、本である以上「読んでナンボ」のものではあることは百も承知なんだけど、「こんな装丁の本を手にしているだけでこの本の中に描かれている精神性のようなものに感化されるんじゃないか?」というような気分にさせる趣とでも呼びたいもの、そんなものをビシビシと感じるんですよね~。  今回の「冬虫夏草」もまさにそんな1冊で、実は読み始める前にひたすら装丁を眺めつづけて数時間という時を過ごしてしまいました。

そしてようやく読み始めたのはお布団の中。  何とはなしにこの物語の読書に適しているのは明るい昼間ではないような気がしたんですよね。  特に今はすべての生命が長い冬の眠りから覚め、ほとばしる生命を謳歌しまくっている春です。  我がLothlórien_山小舎には「蛍光灯」はないうえに、KiKi のお布団脇の読書灯は和紙のシェードがかかった白熱電球(もどきのLED電球)の灯りのみなので、そのどこか頼りなげな光の中こそこんな物語を読むにはピッタリくると思うのです。

さて、「家守綺譚」では家からほとんど出なかった主人公の綿貫征四郎でしたが、本作では愛犬ゴローがいなくなったことをきっかけに、書斎を離れて旅に出ます。  KiKi 自身には物語の舞台近辺の土地勘が皆無なので、どこをどう歩いているのかとか、それがどの程度の行程なのかとか、どんな景色の所なのか等々に関しては全くと言っていいほど分からないのがちょっと残念・・・・・。  ただでさえよく分かっていないところにもってきて、征四郎さんがちゃんと目的があるようでいてどこか風来坊的な動き方をしてくれちゃうので、地図でそれなりに行程を追っているつもりでも時に迷子になること暫し・・・・。  ま、逆に言えばこの「行き当たりばったり感」こそが、人という存在の小ささの1つの証左でもあるわけだし、行き当たりばったりだからこそ出会えるものがあるとも感じられるわけですが・・・・・・。

ピスタチオ 梨木香歩

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9月28日までに返却しなければならない吾妻郡図書館から借りてきている本全6冊のうち(うち1冊は友人名義で借り出し うふ♪)、最後の1冊を読了しました。  今回は先日ご紹介した 「f植物園の巣穴」と今日ご紹介するこちらが梨木作品です。

ピスタチオ
著:梨木香歩  筑摩書房

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なにものかに導かれてやってきた、アフリカ。  棚は、すでに動きはじめたこの流れにのるしかない、と覚悟をきめた...。  待望の最新長篇小説。  (Amazon より転載)

以前にもこのエントリーで書いたことだけど、梨木作品の装丁ってホントに KiKi 好み 266.gif  KiKi の読書の楽しみの最大のものはもちろんその本で詳らかにされる何らかの物語だったり、1つの視座だったりするわけだけど、同時に結構大事なのはその本の頁をめくる前の「本」としての姿である部分も決しておざなりにはできない要素なだけに、梨木作品に関しては「この装丁の本を手にしているこの瞬間の満足感」みたいなものもあるんですよね~。  そういう意味では岩波文庫みたいな本は「大事なのは中身でしょ」的な合理主義が徹底しすぎていて、時に物足りなくなることもあるんですよね~。  もちろん岩波文庫のラインナップには大満足 & 長年とってもお世話になっているので、装丁だけで離れることはないんですけどね(笑)

でも、この装丁に対するこだわりがあるからこそ、「岩波少年文庫 特装版」も「岩波少年文庫 復刻版」もあちこち探し回って、今となってはかなりお高いのにそれこそ清水の舞台から飛び降りる覚悟で購入したりもせずにはいられないのです(笑)  

ま、それはさておき、本作もまさに KiKi の好みストレートど真ん中の梨木ワールド満載の物語でした。

f植物園の巣穴 梨木香歩

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吾妻郡図書館で借りてきた梨木作品2作目です。

f植物園の巣穴
著:梨木香歩 朝日新聞出版

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植物園の園丁は、椋の木の巣穴に落ちた。  前世は犬だった歯科医の家内、ナマズ神主、烏帽子を被った鯉、幼きころ漢籍を習った儒者、アイルランドの治水神...。  動植物や地理を豊かにえがき、埋もれた記憶を掘り起こす会心の異界譚。  (単行本の恐らく帯;図書館本のため、表紙に貼ってあったこれは恐らく帯と察せられる より転載)

歯痛に悩む植物園の園丁がある日、巣穴に落ちると、そこは異界だった。  前世は犬だった歯科医の家内、ナマズ神主、愛嬌のあるカエル小僧、漢籍を教える儒者、そしてアイルランドの治水神と大気都比売神......。  人と動物が楽しく語りあい、植物が繁茂し、過去と現在が入り交じった世界で、私はゆっくり記憶を掘り起こしてゆく。  怪しくものびやかな21世紀の異界譚。  (Amazon より転載)

う~ん、これは難解な本ですなぁ・・・・。  でも、難解ではあっても何故か近しく、親しく、ついでに言えば「現代の神話的」であり、KiKi の好みにはまさにジャスト・フィットの作品でした。  彼女の著書としては「家守綺譚」にかなり近いもの(若干「沼地の~」にも近いかも・・・・ ^^;)だと感じます。  

昨日のエントリーで「昭和の香り」みたいなことを書いた KiKi だけど、恐らくこの作品の舞台も昭和初期の日本のような気がします。  まだまだ日本神話の世界も今ほど廃れて(と言うとちょっと一般化しすぎでしょうか?)いないけど、西洋的合理主義も表舞台に出てきた時代。  まだまだ「庄屋」な~んていう言葉が身近だった時代。  そして、祖先とのつながりが感じられ「家」が重んじられ、オノコの美学が通用した時代。  この本を読んでいてふと思い出したのは随分前に読了した、内山節の「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」という本のことでした。

まだまだ「キツネにだまされた」人が生息していた時代背景でこそ、説得力のあるこの「あわい」の世界。  騙されているような、訳がわからないような世界でありながらも、何故か日本人のDNAにはしっくりと馴染む、現代の神話のような摩訶不思議な世界に主人公ともども漂う自分の心に一種の安らぎに似たものを覚えました。  いえ、本当は不思議だったり理解できなくてもどかしかったりするんですよ。  でも、現実世界では感じる「理解できないことによる不安感」が、何だか頭の中のことだけであり、魂レベルではそれは大したことじゃないと感じられるような安堵感なんです。

 

不思議な羅針盤 梨木香歩

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一時期、遅ればせながら・・・・ではあるものの、梨木果歩さんの作品(但し文庫本)を連続して読んだ時期がありました。  その前後の時期から気になってはいたものの、未だハードカバーしか出版されていないことにより「文庫が出たら・・・・・」と待ち続けていた作品が何冊かありました。  でも、なかなか次の文庫本が出てきません・・・・(涙)  そうしたら先日、たまたま吾妻郡図書館でそれらの気になっていた本3冊を発見!!  今日はその中の1冊、「不思議な羅針盤」です。

不思議な羅針盤
著:梨木香歩 文化出版局

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憤ったり寂しかったり納得したり、何かを慈しんだり発見したりうれしくなったり。  そんな日常にあっては穏やかに南北を指す磁針では物足りず、心の深いところで「不思議な羅針盤」が欲しかったという著者。  同じ年代の女性たちとおしゃべりするような心持ちで、同時に07~09年の社会的事象までも映し出した、万華鏡のようなエッセイ集。  (Amazon より転載)

私自身どこか心の深いところで「羅針盤」が欲しかった、ということもあるのだろう。  憤ったり寂しかったり納得したり、何かを愛しんだり発見して感激したり嬉しくなったり、何だか同じ年代の女性たちとおしゃべりしているような感覚だった。  (あとがきより抜粋部分 帯より転載)

以前、一連の作品を読んだ時にも感じたことだけど、彼女の感性のアンテナに引っかかってくるものとKiKi 自身のアンテナに何らかのシグナルを送ってくるものにはびっくりするぐらい共通項があるんですよね。  もっともそこから展開される物語(心情でもある)には大きな差があって、こちらがモタモタと「えっと、それは○○みたいなもので、でもそう言い切ってしまうのとはちょっと違って・・・・・」などと逡巡している間にスパッと「ああ、それよそれ!」と言わざるを得ないジャスト・フィットの言葉であっさりと言語化されちゃう・・・・・そんな違いは間違いなくあるんですけどね(苦笑)。  でね、ずっと「何でそうなんだろう??」(言語能力の差は置いといて、この感性の正体は?)って考えていたんだけど、やっぱりそこには「同世代」というキーワードがあるような気がするんですよ。

梨木さんは1959年生まれ、KiKi は1961年生まれ。  ほんのちょっとの差はあるけれど、「戦争が終わって経済発展を遂げつつある時代」に生まれ育ったという意味ではおんなじで、今の私たちの生活を支配している電化製品の数々もなかったわけじゃないけれど今ほど多くはなくて、ひもじくて餓死しちゃうような国民はほとんどいなかったけれど今ほど経済的には豊かじゃなくて、スーパーはちらほらとあったけれど日常の買い物は個人商店が主で、都会にはマンション(というよりアパート?)が増えつつあったけれど、戸建て(自己所有か貸家かは別にして)の家の方がまだまだ一般的で・・・・・。  

端的な例をあげるなら、まだ一家にTV一台とまではいかない(要はTVのない家だってあった)時代、当然パソコンだの携帯だのという情報機器ツールはまだ誕生さえしていなくて、(家の固定電話だってない家が多かった)子供の情報源と言えば「親の会話」「近所の大人の会話」「その会話を聞いた友達の話」「幼稚園や小学校の先生のお話」ぐらいが関の山。  要するに誰かの感性(もしくは知性)のフィルターを通ったものだけで、その一つ一つの信憑性は誰も担保してくれない・・・・・そんな時代に育ったということが大きな要因としてあるような気がするんですよ。

 

村田エフェンディ滞土録
著:梨木香歩  角川文庫

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時は1899年。  トルコの首都スタンブールに留学中の村田君は、毎日下宿の仲間と議論したり、拾った鸚鵡に翻弄されたり、神様同士の喧嘩に巻き込まれたり...  それは、かけがえのない時間だった。  だがある日、村田君に突然の帰還命令が。  そして緊迫する政情と続いて起きた第一次世界大戦に友たちの運命は引き裂かれてゆく...  爽やかな笑いと真摯な祈りに満ちた、永遠の名作青春文学。  (文庫本裏表紙より転載)

ああ、この物語は好きだなぁ・・・・。  正直なところ「沼地の~」にはあまり感銘を受けなかった KiKi にとって、次の梨木作品に手を出すのにはささやかな抵抗・・・・というか、迷い・・・・のようなものがあったんですよね~。  でも、この物語はあの「沼地の~」を読んだ時点で感じた居心地の悪さみたいなものとは無縁でした。  今から遡ること百年以上前の土耳古(トルコ)を訪れた、古き良き日本人の美徳を満々と湛えたような留学生・村田エフェンディの、かの地で出会った各国から訪れた人々とのかけがえのない邂逅と離別の物語です。  いかにも知識人という雰囲気を持ち合わせた高潔且つ内省的な人たちも魅力的。  そしてそんな彼らが集うディクソン夫人の下宿屋(?)はあたかもサロンのようで、そこで語り合われる国家という枠組みを超えた世界観・人生観・・・・・のようなものには多くのことを考えさせられます。  

文中に出てくるローマの劇作家・テレンティウスの「わたしは人間である。  およそ人間に関わることでわたしに無縁なことは一つもない」 という言葉には是も非もなく頷かされました。  そして最後の場面で多くの苦難の末に村田のもとに辿り着いた、ディクソン・サロンの時間を共有した鸚鵡と村田の対話 「ディスケ・ガウデーレ」(楽しむことを学べ) by 村田 & 「友よ。」 by 鸚鵡 には胸を熱くさせられました。 

       

KiKi はね、子供時代、自分の家の食事に物足りなさを感じていました。  お皿の数(おかずの量)が少なかったわけではありません。  店屋物が多かったわけでもありません。  逆に KiKi の実家では外食というのが異例中の異例の出来事で、うなぎとお寿司以外で外で食事をするな~んていうことがあったらその日もしくは翌日のお天気を本気で心配してしまう・・・・・それほどまでに外食ということをしたことがなかったのです。  じゃあ何に物足りなさを感じていたのか??  それは食卓の色でした。  スーパーに行けば今よりはまだまだ少なかったもののそれでもとてもカラフルなお野菜の並んでいる時代に育っていたのに、KiKi の家では生野菜が食卓に並ぶことはありませんでした。  卵料理もさほど頻度高く並ぶことはなく、一番多かった献立は「ごはん & 味噌汁 & 煮魚 or 焼き魚 & 野菜の煮物 & ぬか漬け」というセットでした。  これって味とか栄養という点では何ら問題のない(逆に健康的なぐらい)献立なんですけど、食卓の上の色が茶色系に統一されちゃうんですよね~。

KiKi は大学生活から自炊を始めました。  最初の2ヶ月はそれこそ有頂天になって「今日からカラフルな食卓にするんだ!」と勢い込んでいました。  毎日彩りをあれこれ考えながらサラダを作り、ヨーグルトのソースもあれこれ試し、わざわざミキサーまで買い込んでとにかく「カラフルな食卓」を目指して奮闘しました。  ところが・・・・・です。  長年飼い馴らされてきた胃袋というのはなかなか自己主張が激しいもので、たった1ヵ月半で KiKi の「カラフルな食卓プロジェクト」は潰えました。  食べつけない生野菜には「うさぎじゃないんだから・・・・」とうんざりし、お醤油の香りが恋しくなり、干ししいたけを戻す香り、切り干し大根の匂い、大豆の歯ごたえ、そしてぬか漬けの味に渇望し、ふと気がついた時には KiKi のアパートの食卓のメインカラーも茶色系に取って代わられました ^^;

ま、てなわけで(ってこの本の内容をご存じない方にはどんなわけでなのか、さっぱり見当もつかないでしょうけれど 苦笑)本日のKiKi の読了本は「ぬか漬けつながり」のこちらです。

沼地のある森を抜けて
著:梨木香歩  新潮文庫

 

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はじまりは、「ぬかどこ」だった。  先祖伝来のぬか床が、うめくのだ―  「ぬかどこ」に由来する奇妙な出来事に導かれ、久美は故郷の島、森の沼地へと進み入る。  そこで何が起きたのか。  濃厚な緑の気息。  厚い苔に覆われ寄生植物が繁茂する生命みなぎる森。  久美が感じた命の秘密とは。  光のように生まれ来る、すべての命に仕込まれた可能性への夢。  連綿と続く命の繋がりを伝える長編小説。  (文庫本裏表紙より転載)

う~ん、この物語は KiKi にとってはかなりビミョーです。  恐らく梨木さんがこの物語で語りたかったことは「ぐるりのこと」のそこかしこで匂わしていらした、生命の神秘と命をつないでいくということに対する1つの視座みたいなものなんだろうと思うんですよね。  そしてそこに絡めて生命の連鎖という我々個々人がどうこうできるわけではないストリームの中での「個」、「個体」とは何か? ということに対するこれまた1つの視座みたいなもの・・・・・。  それは漠然とは感じられるんですよ。  でもね、何もそこに「ぬかどこ」が出てこなくたって・・・・・・・(ため息)

家宝とまで呼ばれる「ぬかどこ」を相続した久美がぬかどこの世話を始めるあたりまでは、かなりゆったりした気分で読み進めることができたんです。  でも、そのぬかどこの中にある日突然卵ができちゃったり、その卵から男の子やのっべらぼうの女の人が出てくるあたりから、何となく気分はホラー調へ・・・・・(実は KiKi はホラーというジャンルが苦手なのです ^^;)  そしてそのぬかどこがどこかの島の泥からできているとか、そのあたりでほぼ精神的にはギブアップ・・・・・。  (いえ、一応、読了はしましたけれど・・・・・)  

さらには、メインの物語の間々に挟まれている「かつて風に靡く白銀の草原があったシマの話」I~III がこれまた難解で・・・・・。  いえね、これ単独で読む分にはちょっとした「異世界ファンタジー」って言う感じで興味深いんだけど、間々に挟まれているだけにどう読んだらいいのかわからない・・・・と言うか。  まあ、恐らくは久美の一族の出てきたシマ、沼地を人間目線ではなく、別の目線で見たときの風景・・・・・のようなものなんだろうとは思うのですが、要するによくわからない・・・・・ ^^;   

 

ぐるりのこと 梨木香歩

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梨木作品に戻ってきました。  本日の KiKi の読了本はこちらです。

ぐるりのこと
著:梨木香歩  新潮文庫

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旅先で、風切羽の折れたカラスと目が合って、「生き延びる」ということを考える。  沼地や湿原に心惹かれ、その周囲の命に思いが広がる。  英国のセブンシスターズの断崖で風に吹かれながら思うこと、トルコの旅の途上、ヘジャーブをかぶった女性とのひとときの交流。  旅先で、日常で、生きていく日々の中で胸に去来する強い感情。  「物語を語りたい」―創作へと向う思いを綴るエッセイ。  (文庫本裏表紙より転載)

このエッセイ、KiKi は好きですね~。  ただ読みやすいか、読みにくいかと言えばかなり読みにくいエッセイだと思うんですよね。  話が大きく飛ぶのは梨木さんの特徴・・・・・でもあるからさほどの戸惑いはないのですが、KiKi もこのブログでやりがちな()カッコ書きでの追記・・・・・がかなり多く、その()部分があまりにも長かったりするので、1つの文脈を2度、3度と読み直してみないと何の話だったのかわからなくなってしまった・・・・・ということも多々あって・・・・・。

ただね、これは論文ではなく、文学作品でもなく、エッセイであることを考えると、KiKi にとっては許容できる範囲の文脈の迷いなんですよね~。  逆に1つのことをああでもない、こうでもない、こっちの観点から見ると○○だけど、そう言い切っていいものだろうかと逡巡する姿勢そのものに、誠実さのようなものを感じます。  特に今回のこのエッセイで梨木さんが徹底的に拘っていらっしゃるのは自分は「わかったつもりになっている」けれどその実「何もわかっていないのではないか?」という想い、「物事を単純化、明解化することは悪いことではないけれど、今、誰もが思っているほど本当に正しいことなのか?」という想いがあるように感じられるからです。

イマドキの書き物は言い切り型の作品が多く、それはそれでその作者の立ち位置・主張がわかりやすいのでストレスを感じないですむ・・・・・のは事実ですが、自分がちゃんと物事を考えることができているのか?に拘っている KiKi にとっては、言い切ること ≒ 物事の単純化 ≒ 巧妙な思考停止の罠 に見えなくもなく、時々不安になったりもするのです。 

「自分の立ち位置を確たるものとしたい」

これは KiKi の永年の1つの目標でした。  特に仕事において「命じられたことを遂行する立場」から「ある立ち位置から判断をし、部下に実行を指示をする立場」に変わりつつある頃から、ぶれない視点を持ち、あるべき方向性を明確にし、確実にスピーディーに、自分以外の人間に実行を促せる人間になるためには必須のことだと考えていました。  仕事のうえではこれはとても必要なことだった(と信じている)し、ビジネスの世界では所詮、目指さなければならないゴールの核にあるものは「継続企業」 & 「利潤追求」 但しコンプライアンスは意識して・・・・・という観点を際立たせればよい、ある種シンプルなものだったと思うんですよね。  でも、そのある種の「物事の単純化」「合理的判断」の癖が、世界情勢だとか政治を考えるうえでは弊害になっているように感じ始めたのが40代の初め頃でした。

単純化するうえで切り捨てているもの、その切り捨てたものに関して「必要なし」という烙印を押したことにより深く考えなくなってしまっている自分に気がつきました。

 

 

  

家守綺譚 梨木香歩

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家守綺譚
著:梨木香歩  新潮文庫

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庭・池・電燈付二階屋。  汽車駅・銭湯近接。  四季折々、草・花・鳥・獣・仔竜・小鬼・河童・人魚・竹精・桜鬼・聖母・亡友等々々出没数多・・・・・  本書は、百年前、天地自然の「気」たちと、文明の進歩とやらに今ひとつ掉さしかねてる新米精神労働者の「私」=綿貫征四郎と、庭つき池つき電燈つき二階屋との、のびやかな交歓の記録である。 -綿貫征四郎の随筆「烏蘞苺記(やぶがらしのき)」を巻末に収録。  (文庫本裏表紙より転載)

KiKi はね、昔から1つの憧れの立場(職業ではない)、生き方、立ち位置というものがありました。  それは明治時代の書生さん。  未だ何者でもない、何を成しているわけでもない、ある意味頭でっかちで一文の得にもならないようなことをああだこうだと考えている、この物語の中の「精神労働者見習い」みたいなポジショニングの人間。  お金はないけれど時間だけはたっぷりとあって、若さとわけのわからない自信と焦燥感を持て余しているようなそんな人間。  でもね、そんな言ってみれば中途半端なポジションに何故自分が憧れているのか、どうしてもうまく説明できない・・・・・そんな風に感じていました。  そしてこの本を読んだときに感じた最初の想いは「ああ、ここにその答えがあった。」というものでした。

日がな一日、憂いなくいられる。  それは理想の生活ではないかと。  だが結局、その優雅が私の性分に合わんのです。  私は与えられる理想より、刻苦して自力で掴む理想を求めているのだ。  こういう生活は、私の精神を養わない。

さっきは少し、自分に酔い、勢いを付けなければ誘惑に負けそうだった。  だがそれは大変失礼な態度でもあったと帰ってから分かった。  言葉足らずですまなかったと思っています。  私には、まだここに来るわけにはいかない事情が、他にもあるのです。  

現代的な合理的な価値観からすれば「何者でもない」とか「何も成していない」というのは、ある意味でとても怠惰な生き様・・・・・とも言えるかもしれない。  けれど・・・・・・。  自分が「精神を養う」という意識を薄れさせて世俗的な目的意識のみに突き動かされて生きているのが、それこそどうにも性分に合わない・・・・・・のだと。  そして書生という立場にその真っ只中にいる人というある種身勝手なイメージを重ねているから、憧れているんだと思った次第です。

  

今日も梨木作品を読み続けています。  どうやら KiKi は上橋作品同様に梨木作品にも嵌ってしまったみたい・・・・(笑)  多分、そこには同世代を過ごし、同じようにイギリス文学に傾倒してきたという一方的な親しみと、Border ということを常に感じながら時を重ねてきたという共通点、そして、物事の思考の仕方に垣間見える共感(但し、梨木さんのほうがず~っと深いんだけど・・・・)みたいなものがあるように感じます。  上橋作品はどちらかというと読んでいて「やられた~!、  参った!」と感じつつ楽しめる(Joy)なのに対し、梨木作品は「そうそう、あ、それよ!  私も感じてた。  こういう風に言語化できるんだ、なるほど~」っていう風に腑に落ちるっていう感じでしょうか。  ま、それはさておき、本日の KiKi の読了本はこちらです。

エンジェル エンジェル エンジェル
著:梨木香歩  新潮文庫

41VMQMTDB3L__SL500_AA300_.jpeg (Amazon)

コウコは、寝たきりに近いおばあちゃんの深夜のトイレ当番を引き受けることで熱帯魚を飼うのを許された。  夜、水槽のある部屋で、おばあちゃんは不思議な反応を見せ、少女のような表情でコウコと話をするようになる。  ある日、熱帯魚の水槽を見守る二人が目にしたものは―  なぜ、こんなむごいことに。  コウコの嘆きが、おばあちゃんの胸奥に眠る少女時代の切ない記憶を呼び起こす...。  (文庫本裏表紙より転載)

女の子は誰もが子供時代は純なもの、美しいもの、優しいものに心惹かれ、自分こそがそれを体現したものになるんだ・・・・・と無意識のうちに思っているようなところがあると思うんですよね。  でも、時を重ねている中でそんな自分の中の秘めた目標と現実のギャップに否応なく気がつかされるんですよ。  思っていた以上に不純で、醜くて、意地悪な自分という現実に。  それを認めたくはないけれど認めざるをえず、必死で言い訳しようとするんだけど言い訳になっていないことに気がつき、「ごめん」と言いたいのに言えない自分。  多かれ少なかれ誰もがそんな苦い想い出を心の奥底のどこかに封印しているんじゃないでしょうか?

コウコの寝たきりのおばあちゃん、さわちゃんもそんな1人。  寝たきりになってボケちゃう年代になって、それでも残っている想いは女学生時代に封印した天使になれなかった自分、「ごめんなさい」と言えなかった自分、封印してしまった醜い自分に落とし前をつけるということ・・・・・だったような気がします。  

娘時代の自分のワガママの余韻を放つ、物置の中に眠っていた現代の価値観からすると「サイドテーブルとしての格も落ちれば実用的とも言えない」テーブルを目にし、娘時代の自分の悪行と切っても切れない関係にある「コウコ」という名前、そして天使の名を持ちながらも案外獰猛なエンジェルフィッシュの所業を目にするという3点セットによって、さわちゃんの心の奥深くに封印されていた「苦い思い出」とそれに対する「謝罪の念」が表出してきた・・・・・そんな物語だと思います。

 

今日も KiKi はLothlórien_山小舎に来ています。  つい先ほどまでは庭に出ていたのですが遠くから雷がゴロゴロと鳴り始め・・・・・と思ったらあっという間にまるで東南アジアのスコールのような大雨が・・・・・。  大慌てで洗濯物を取り込み、濡れた身体を拭いてお茶をいっぱいいただいている間にその雨は通り過ぎ、今は夕方の日差しがまぶしく鳥たちが姦しい・・・・・ ^^;  何だか変なお天気ですよね~。  ま、この時間になってしまうと虫たちも大活躍し始めるのでそのままあがって PC に向かっています。  で、せっかくならば昨晩読了した本についてのブログ更新・・・・・と。  ま、てなわけで本日の KiKi の読了本はこちらです。

春になったら苺を摘みに
著:梨木香歩  新潮文庫

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「理解はできないが、受け容れる」それがウェスト夫人の生き方だった。  「私」が学生時代を過ごした英国の下宿には、女主人ウェスト夫人と、さまざまな人種や考え方の住人たちが暮らしていた。  ウェスト夫人の強靭な博愛精神と、時代に左右されない生き方に触れて、「私」は日常を深く生き抜くということを、さらに自分に問い続ける―  物語の生れる場所からの、著者初めてのエッセイ。  (文庫本裏表紙より転載)

「理解はできないが、受け容れる」  さらっと書いてあるこの言葉は人間にできる最大限の寛容の精神の行動パターン。  KiKi もね、もっとずっとず~っと若い頃は「人は言葉を操ることができる知的な動物なんだから、心をこめて、時間をかけて、じっくりと話し合うことさえできれば分かり合えるはず・・・・  今は時代が忙しすぎて時間をかけてじっくりと話し合うことができないのが問題」だと思っていたようなところがあります。  でもね、ある年齢を過ぎてからそれが幻想に過ぎないということに気がついたんですよね~。

だいたいにおいて「分かり合える」と思うこと自体が不遜・・・・というか、自意識過剰なんじゃないか?  そんな風に感じ始めたのは、このエッセイの中で著者が経験されたのと似たような海外の人たちとの接点を持つ機会を得てからのことでした。  でもね、当初はそれでもしつこく「いやいや、食文化も精神文化も異なる国の人たちとはなかなか分かり合えない部分も多いけれど、似たような食文化・精神文化のアジアの人たちとなら・・・・・」「いやいや、やはり国が異なれば似ているといっても限界があるから、同じ日本人同士なら・・・・・」「いやいや、世代が違うと体験してきた文化レベルが違うから日本人の同世代人となら・・・・・」というように少しずつ、少しずつ、そのエリアが狭まっていきました。

でも、今の KiKi は「同じ国に生まれ、同世代で、同じ地域で似たような環境で育ってきた人であってさえも、分かり合えるというのは錯覚にすぎない」とさえ思っています。  あ、別にその努力を放棄しようと思っているわけではないんですよね。  ただ、「分かり合えるはず」という思い込みは危険なもの・・・・・と捉えているとでも言いましょうか・・・・・。 

この本を読んで最初に感じたこと。  それは著者の梨木さんは KiKi とは違って「分かり合いたい」という気持ちは強いものの、どこかで最初から「それは幻想である」とわかってしまっていた人のような気がしました。  どちらかというと不器用で、常に「一般的」と呼ばれる何か・・・・とはほんの少しだけ距離を置いてきた(というより距離感を抱えていた)人だったんじゃないか?  ある種、現代の普通の日本人社会にどこか違和感を持ち続けてきた人だったんじゃないだろうか?と。  そして、そこから這い上がりたいが故に、諦め切れないが故に、生き様として「深く生きる」という方向性を志向されていらした人だったのではないか?と。

   

りかさん 梨木香歩

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「からくりからくさ」の前日譚という位置づけの「りかさん」。  たまたま「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」を入手してしまったため、この本を読んでいる途中でそちらに寄り道し、少しだけ間があいてから続きを読み進める・・・・という読書法(?)になってしまったこの本ですが、途中で何ら戸惑うこともなく、なんとか読了することができました。  ま、てなわけで本日の KiKi の読了本はこちらです。

りかさん
著:梨木香歩  新潮文庫

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リカちゃんが欲しいと頼んだようこに、おばあちゃんから贈られたのは黒髪の市松人形で、名前がりか。  こんなはずじゃ。  確かに。  だってこの人形、人と心を通わせる術を持っていたのだ。  りかさんに導かれたようこが、古い人形たちの心を見つめ、かつての持ち主たちの思いに触れた時――。  成長したようことその仲間たちの、愛と憎しみと「母性」をめぐる書下ろし「ミケルの庭」併録。  (文庫本裏表紙より転載)

市松人形を目にすることがほとんどなくなってどのくらいになるのでしょうか?  実際 KiKi も子供時代には市松人形をもっていなかったし、KiKi の子供時代がおそらく「リカちゃん人形」のハシリの時代だったと思うんだけど、 KiKi もようこと同じように「リカちゃんが欲しい」とねだった(≒「市松人形を欲しい」とはねだらなかった)ことを懐かしく思い出しました。  KiKi の子供時代であってさえも古い(格式のある?)お宅とかおばあちゃんが同居しているお宅でこそたま~に見かける不思議な人形が市松人形だったんですけど、最近ではめっきり見かけることがなくなったように思います。

でもね、市松人形って「リカちゃん」よりももっとず~っと長い歴史があって、日本人にとっては親しいものだったはずなんですよね。  「リカちゃん」と同じように着せ替え人形でもあったし、「リカちゃんハウス」と同じように、そしてこの物語のりかさんと同じようにお仕度(いわゆる専用の食器、履物等々のお道具類)もあって、ついでに「お裁縫」の練習台という使われ方もしてきたお人形なんですよね。  ある意味では「買ってきた洋服を着せ替えるだけ」という感もなきにしもあらず・・・・の「リカちゃん」以上にもっともっとず~っと日本の女の子の日常に近しい存在だったもの・・・・・だったはずなんですよね~。

そんなお人形であるだけに、恐らく KiKi が子供時代にやっていた「お人形遊び」よりも、もっとず~っと深いところで持ち主の女の子と密着していた存在だっただろうと思われるし(少なくとも KiKi は自分のお人形の洋服を自分で仕立てたことはただの一度もなかったし 苦笑)、そうであるだけにこの物語の主役「りかさん」が話すことができるという設定には現代の女の子の「お人形遊び」でのお喋り以上に深いものを感じます。

 

せっかく梨木香歩さんの世界に「裏庭」で戻ったので、もう1冊、続けて読み進めてみることにしました。  てなわけで本日の KiKi の読了本はこちらです。

からくりからくさ
著:梨木香歩  新潮文庫

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祖母が遺した古い家に女が四人、私たちは共同生活を始めた。  糸を染め、機を織り、庭に生い茂る草が食卓にのる。  静かな、けれどたしかな実感に満ちて重ねられてゆく日々。  やさしく硬質な結界。  だれかが孕む葛藤も、どこかでつながっている四人の思いも、すべてはこの結界と共にある。  心を持つ不思議な人形「りかさん」を真ん中にして―。  生命の連なりを支える絆を、深く心に伝える物語。  (文庫本裏表紙より転載)

なんとも美しい装丁の本ですよね~。  文庫本の装丁でこんなにきれいなものは「梨木作品」特有の現象(?)のような気がするのは気のせいでしょうか?  昨今ではLOHASだのスローライフだのという言葉が大流行で、表面的にはこの物語で描かれている世界に誰もが目を向け始めているかの如き風潮が跋扈しているように感じているのですが、その世界とここで描かれている女性4名の暮らしは似て非なるものだと思います。  何ていうか、「根っこがある」「ない」の違いのようなものを感じます。

KiKi はね、現代のブームのようになっている LOHAS や スローライフ にはかなり懐疑的なんですよね。  話にちょっと大きな飛躍があるかもしれないけれど、昨今の風潮になっている LOHAS や スローライフ にはどこかマリー・アントワネットのプチ・トリアノンに設けられた「王妃の村里」(ル・アモー)みたいな雰囲気を感じずにはいられないんですよね~。  素朴さ、自然とのふれあいをファッションにしてしまっているとでも言いましょうか・・・・・。  そこに悪意がないのはアントワネットさんも、現代人も同じだとは思うんだけど、なんと言うかそこに「必然性」・・・・みたいなものが感じられず、単なる「非日常イメージ」の異形っていう感じがして仕方ないんですよね~。  かつてはその対象が「ブランド物」だったのが、「LOHAS や スローライフ」に変化しただけ・・・・というような気がするんですよね。

それに対し、この物語に出てくる4人の女性、その中でも特に蓉子さんの生活はもっと「必然性」に根ざしていて、生き方そのものに浮ついたものが欠片も見受けられず、そうであるだけに「澄んだ美」のようなものが漂います。  そしてその「澄んだ美」は梨木さんの美しい文体・自然観と相まってまるで静かに流れる「弦楽四重奏」のような落ち着きを醸し出しているように感じます。

 

裏庭  梨木香歩

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ここのところちょっと哲学的・・・・というか、お勉強に近い系列の本ばかり読んでいたので、ここいらでちょっくら物語系の本を読みたくなってしまいました。  で、茅田砂胡さんの「デルフィニア戦記」を制覇したい・・・・という数年来の願望もかなり頭をもたげてきているのですが、その前に・・・・。  ちょっと途中で止まってしまっている梨木香歩さんの世界に浸ってみたいと思います。  ま、てなわけで本日の KiKi の読了本はこちらです。

裏庭
著:梨木香歩  新潮文庫

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昔、英国人一家の別荘だった、今では荒れ放題の洋館。  高い塀で囲まれた洋館の庭は、近所の子供たちにとって絶好の遊び場だ。  その庭に、苦すぎる想い出があり、塀の穴をくぐらなくなって久しい少女、照美は、ある出来事がきっかけとなって、洋館の秘密の「裏庭」へと入りこみ、声を聞いた―教えよう、君に、と。  少女の孤独な魂は、こうして冒険の旅に出た。少女自身に出会う旅に。  (文庫本裏表紙より転載)

う~ん、これはなかなか難しい本ですねぇ・・・・。  まず構成の仕方という点では KiKi の大好きな作家の1人、M. エンデの「はてしない物語」風。  庭という異世界を構成しているという点では、P. ピアスの「トムは真夜中の庭に」風。  「秘密の花園」の匂いもあれば、「不思議の国のアリス」の匂いもあるし、「ムーミン」から登場人物だけちょっと拝借・・・・という感じで、他にも古今西(東西ではない)の子供時代から馴染みの「数多の物語」の残り香が香るお話だと思います。  でも、それらの物語と決定的に違うのは、この本では現代人が忌み嫌うものとして感情的にしか捉えていない「死」と、楽観的であることがブーム・・・・のような現代世相の中で、沈思黙考することの少なくなった「自分の傷を見つめる」というテーマがこれでもかっていうぐらい出てくるところ・・・・・。  逆に言えば異世界を旅する中でのワクワク感みたいなものは極めて希薄な物語だと思います。

異世界はそこを旅してワクワクするワールドではなく、自分の傷や死を受け入れるための舞台装置。  そうであるだけに KiKi には照美が旅する異世界での出来事よりもいわゆる現世、照美が旅に出る前、そして出ている間、帰ってきた後の現実世界で起こるさまざまな出来事のほうにより多くの感情移入ができたような気がします。  

そしてもう1つ。  この本の中で語られる昨今の「癒し」という言葉の薄っぺらさ、嘘っぽさはまさに KiKi がここ何年というもの、切実に、そして頻繁に感じることで、思わず膝を打ちました。  「癒し市場」・・・・本当に現代の「癒し」という言葉はなんとまあ商売っ気だらけの言葉になってしまっていることか・・・・・。  自分の傷と正面から向き合うことは避けながら、なんらかのグッズやありがたそうに聞こえる他人のお言葉に縋るのはどこかおかしい(けれど誰もが弱さを持つ人間である以上は仕方ない)けれど、そこに群がり商売の機会とすることの浅ましさ・・・・みたいなものを感じます。  

「自分の傷と真正面から向き合うよりは、似たような他人の傷を品評するほうが遥かに楽だもんな。」

これって、現代社会のある一面を抉り取る深い言葉だと思います。

 

水辺にて 梨木香歩

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今日の読了本も図書館本です。  この表紙(↓)、素敵ですよね~。  これは川の風景なんでしょうか?  KiKi には湖の風景に見えるんだけど、こういう「幽玄」という言葉が似合いそうな景観は KiKi の大好物!  期待を抱えて読み始めたところ案の定、あっという間に読了してしまいました。  

水辺にて
著:梨木香歩  筑摩書房

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生命は儚い、けれどしたたかだ-。  川のにおい、風のそよぎ、木々や生き物の息づかい。  カヤックで漕ぎだす、豊かで孤独な宇宙。  そこは物語の予感に満ちている。  『Webちくま』連載に書き下ろしを加えて単行本化。  (Amazon より転載)

梨木さんの作品は現段階ではこの本を含めてまだ4冊しか読んでいないんだけど、物の見方、感じ方、そしてそれを表現する際の言葉の選び方にものすご~く親しいものを感じます。  上橋さんの作品に関しては「参った!」っていう言葉が相応しかったような気がするんだけど、梨木さんの作品に関しては今のところ「参った!」という言葉よりは、「うんうん、わかるわかる。  あ、やっぱり?  あ、そうそう、KiKi には見つけられなかった言葉だけどそれよ、それ!」っていう言葉が似合うと言うか・・・・・・。

で、梨木さんのエッセイを今回初読みしてみたわけだけど、何となく、何となく・・・・・ではあるんだけど、ある種の共通項・・・・みたいなものを見つけたような気がします。  まず第一に同世代だということ。  つまり同じような子供時代体験をしてきているんだろうなぁ・・・と。  そして同じようにイギリス文学に憧れて、イギリスにも滞在(梨木さんの方が長いし、きっちり学んでいらしてるから「同じように」という言葉は相応しくないかもしれないけれど)してみた人だということ。  観光地よりもそこから外れたちょっと寂しいような、厳しいような世界に何故か惹かれる体質(?)の持ち主だということ。  大胆なようでいてその実臆病なところ。  そして現在の文明社会・・・・というか都市型生活を否定こそしていないけれど、そこから逃げたい衝動を持っていそうな人だということ。  そしてそんな経験を通じて「老い」に足を踏み入れつつある同じような老成経験(?)をしている人・・・・・のような気がするんですよね~。  

 

丹生都比売 梨木香歩

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本日も図書館から借りてきた本を読み進めています。  あ、因みに今回図書館から借りてきたのは以下の9冊。

梨木香歩作品

  この庭に - 黒いミンクの話
  丹生都比売(におつひめ)
  水辺にて

辻邦生作品

  背教者ユリアヌス (上)
  背教者ユリアヌス (中)
  背教者ユリアヌス (下)

茅田砂胡作品

  デルフィニア戦記 第一部放浪の戦士 (1)
  デルフィニア戦記 第一部放浪の戦士 (2)
  デルフィニア戦記 第一部放浪の戦士 (3)

一応、今のところこの順番(↑)で読み進めていきたいと思っています。  で、昨日の読了本が「この庭に」で、本日の読了本はこちらです。

丹生都比売
著:梨木香歩  原生林

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持統天皇の治世を舞台に、丹生都比売という姫神と、水と、銀とに彩られた、草壁皇子の少年の日々を描く。  (Amazon より転載)

この図書館本に入る前に読んでいたのが「空色勾玉」。  たまたま今 KiKi が集中して視聴している Podcast が「歴史ラジオ」「NipponArchives 万葉集~ココロ・ニ・マド・ヲ~」と何故か「日本探訪モード」に入っているのは偶然なんでしょうか?  それとも何かのめぐり合わせなのでしょうか??  日本人なのに案外日本のことを知らないという反省とも焦燥ともつかない想いを KiKi が抱くようになったのが10年くらい前からのこと・・・・。  そしてLothlórien_山小舎を構えてからは特に「万葉集」には興味を抱くようになっていきました。  それは意外と万葉集には「東歌(あずまうた)」が多く収録されていることに気がついたからです。

そして万葉集の中でも超有名な歌、高校の古文の授業でも学んだ歌がいわゆる相聞歌で、

あかねさす 紫野行き 標野行き
  野守は見ずや 君が袖振る    額田王

紫草の にほへる妹を 憎くあらば
  人妻ゆえに われ恋ひめやも   大海人皇子

こんなにもおおらかな恋歌を交わした人たちはどんな人たちだったんだろう?  それが KiKi が大海人皇子に興味を持った最初のきっかけでした。  そして、壬申の乱を知り、天智・天武・持統の3天皇を知り、その物語の中で大海人皇子(後の天武天皇)と鸛野讃良皇女(後の持統天皇)の息子である草壁皇子という存在を知りました。  

でもね、この時代の政権争いにおける悲劇のヒーローとしては、どうしても大友皇子や大津皇子に座を譲らざるを得ない皇子様だと思うんですよね~。  草壁皇子も若くして亡くなられる方だし、時代も時代なので、今はまだ知られていない(KiKi が知らないだけかもしれませんけど ^^;)何らかの物語があるのかもしれませんが、恐らくはこの物語で描かれているように「強者」というよりは、線が細い人だったんでしょうね。  いすれにしろちょっと地味・・・・というか、存在感が薄い・・・・皇子様、そんな草壁皇子が主人公の物語なのですから、梨木さんも面白い人に目をつけたものです(笑)

 

図書館から予約してあった本が揃ったというメールが届き、早速昨日、それをとりに行ってきました。  先日「西の魔女が死んだ」を読んで、表現方法が気に入った梨木さんの本を3冊。  久々にちょっと固めの本も・・・・と思って、これまた以前から気になりつつも読んでいなかった「背教者ユリアヌス」の文庫3冊セット。  そして日本のファンタジーに遅ればせながら目覚めちゃったということもあって「デルフィニア戦記」の最初の3冊の都合9冊です。  「空色勾玉」の世界からいきなり「背教者ユリアヌス」っていうのもきつそうだったし、デルフィニア戦記は続きものだから「次は?  次は?」となってしまうリスクが大きいので後回し。  ま、てなわけで昨晩の KiKi のベッドタイム・ストーリーには一番手軽そうなところでこちらを選びました。

この庭に 黒いミンクの話
著:梨木香歩 イラスト:須藤由希子  理論社

 

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雪のふる小屋にこもる主人公は、ある日、日本人形のような白い顔の少女に出会う。  「この庭に」と、彼女が語りだす。  「この庭に、ミンクがいる気がしてしようがないの」 不思議な魅力ある、もうひとつの「ミケルの庭」の物語。  (Amazonより転載)

しまった~!!  この本のことをあまりしっかりと調べないで「文庫本になっていない梨木作品」ということで安易に図書館に予約を入れちゃっていたんだけど、これって実は「りかさん」「からくりからくさ」の番外編・・・・・みたいな本だったんですね~。  「りかさん」も「からくりからくさ」も KiKi の蔵書(文庫だから蔵書な~んていう風に呼ぶのはちょっと憚られるけれど・・・・ ^^;)の中には既に仲間入りしていて、出番を待っているところだったんだけど、未読の KiKi にとっては主人公のアル中女性(?)の心の傷の深遠さ・・・・みたいなものがよくわからず(ものすご~く深くて大きいこと以外は)、この庭のある家で過ごす時間の貴重さ・・・・・みたいなものが、正直なところ切実にはわからなかったのがとても残念です。

ただ、過度のアルコール摂取量の話やら、オイルサーディンの描写を読んでいると、主人公の抱えている痛みだけは伝わってきて、何だか読み進めるのが辛くなってしまいました。  もっともそれを理解しないままに読み進めてもこの庭のモノトーンの世界が主人公の心象風景となっていることはひしひしと伝わってきたし、薄墨で描いたような淡いモノトーンの世界にときおり浮かぶ、血の赤、ミンクの輝く黒がとても効果的な、絵画的な作品だと思いました。  絵画的でありながらも幻想的。  なんとも不思議な物語です。 

せっかく「西の魔女」本を読了したので、勾玉三部作へ行く前にちょっと寄り道を・・・・・。  ということで本日の KiKi の読了本はこちらです。  

西の魔女が死んだ
著:梨木香歩  新潮文庫

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中学に進んでまもなく、どうしても学校へ足が向かなくなった少女まいは、季節が初夏へと移り変るひと月あまりを、西の魔女のもとで過した。  西の魔女ことママのママ、つまり大好きなおばあちゃんから、まいは魔女の手ほどきを受けるのだが、魔女修行の肝心かなめは、何でも自分で決める、ということだった。  喜びも希望も、もちろん幸せも...。  その後のまいの物語「渡りの一日」併録。  (文庫本裏表紙より転載)

この本は以前から気にはなっていたのです。  正直なところ、この本といい先日読了した「西の善き魔女」といい、気にはなりつつもどうしても手を出せずにいたのは、やっぱりタイトルのせい(笑)  どうしても「オズの魔法使い」と被っちゃうんですよね~、イメージが・・・・・ ^^;  ま、でも映画にもなったみたいだし、KiKi のLothlórien_山小舎暮らしへの衝動と似ている部分もあるような予感があって、今回せっかく「西の善き魔女」を読了したこともあり、思い切って手を出してみました(笑)

う~ん、心がほっこりしますねぇ、こういうお話。  やっぱり人間は自然の中のちっぽけな生き物に過ぎなくて、自然の中にあって生きるために必要なことを黙々と、粛々とやっていくのがもっとも健全な生き方なんだという確信にも近い想いを新たにしました。  そして、魔女っていうのは魔法の呪文が使えるような人のことではなくて、もっと普通の存在・・・・・。  でも、自分にとって一番大切なものが何かをしっかりと体感できていて、その芯をぶらすことはなく、自分が生かされていることを謙虚に受け止め、その中でできることをきちんとしていくことができる人ということではないかと思いました。

  

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